女性の心を落ち着かせる言葉

フロイトからラカンへの精神と心の分析で女性が生きやすくなるために生命を再考察するパサージュ

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女性の精神と心のバランスにフロイトからラカンの心の分析で女性の生きやすさをパサージュ

・フロイト=ラカン;新宮一成編ー講談社・選書・メチエ
          立木康介

第一部 ラカンからフロイトに遡ること

*はじめに

・発見はすべてが後世の伝承させるとは限らない
「独創的な発見が、一つの思想の系となって展開される、思想史の中で、その幸運は常に起こることではない・・その幸運に恵まれず、朽ち果てていった発見は数知れない・・フロイトの発見は、ラカンの系に掬い(すくい)上げられることで不朽のものとなった・・」p8(1)

・ラカンの系はフロイトの無意識に回帰に徹する
「ラカンは強力な理論を展開したが、基本となる無意識という発見を、常にフロイトに帰した・・そのラカンの態度から、私たちは、フロイトの多くの著作が、何を使命として書かれているかに気づかされる・・発見は、必ずしも、発見されたものが正確に理解され名づけられていることを意味しない・・発見者にできることは・・誰にでもその発見を再発見できるように、発見された場所を保全しておくことだけなのである・・フロイトの諸著作は、そのような保全の努力の集積としてそこにある・・なによりもまず、そのことを鋭く見抜いたことが、ラカンの卓越性である・・彼は、運び伝えられてきたフロイトの発見を、整合的な理論化によって、フロイト個人を越えて伝達可能なものに変えたのである・・」p8(5)

・ラカンを読み、フロイトを越えて精神分析を知る
「私たちがラカンを読むとき、自己の個人的な経験や知識が、フロイトの発見そのものへと引きつけられ、関係づけられ、フロイトの言葉で語り直されるのを感じるのはそれゆえである・・それは読むという行為を通して精神分析の空間を自分の周りに引き寄せるような経験とでも言えばいいのだろうか・・フロイトからラカンへの展開を辿ることが思想史研究に属する作業だとすれば、ラカンからフロイトに遡ることは、フロイトの発見を生きたまま再発見する経験なのである・・」p8(12)

・フロイトからラカン。時代は何かが消えていった契機
「私たちはその経験の中で、何に出会うことになるのだろうか・・フロイトは、近代の総仕上げにあたる19世紀の後半から20世紀の前半にかけての時代を生きた・・時代精神の地殻変動の中で、取り返しのつかない何かが消えてゆく・・消えてゆくことで初めて気づかされるものがある・・この時代にあっては、それはまさしく神の存在だった・・近代の頂点で、『神は死んだ』と語った人がいて、代わって、人間の理性が、神の不在の場所を覆うはずだった・・理性は必ずしもその任に堪えないことが判明しはじめた・・その一方で、神そのものではなく、神の場所が『無意識』として存続していることが発見されたのである・・神なくして、人間は思考できるか、生を享受できるか・・人間社会は整合性を保てるか、この疑問は、さしあたり肯定で答えられる・・人が『無意識』という場所を認めるならばである・・」p9(1)

・フロイトが発見した『無意識』を認める
「神を亡くし、その代わりにフロイトによって発見された『無意識』を認めて、不完全な自らの思考と言語で生に耐えること、これが、ラカンの言うところの『フロイト以来の理性』となった・・西欧に発する近代世界の自壊の道を歩む、現代の人間像である・・この危うげな人間像の許で人間はいつまで生きていくことになるのか、それはまだ誰も知らない・・」p9(10)

・西洋の限界は日本の限界でもある
「私たちはそれを、西洋近代の限界として嗤って(わらって)済ましていることはできない・・というのも、日本人がそれに無関係であるはずがないからである・・神を語らないはずの仏教の寺院に夥しく(おびただしく)住まいする仏像群、逆に神がいるはずの神社の、神器に守られた空虚・・日本人の宗教生活もまた、西欧で見出された『無意識』を梃子(てこ)として語られるべき多くの問題を抱え込んだままに、そしてその問題に名前をつけることさえ保留したままに、営まれているのである・・」p9(13)

・フロイトの『無意識』は理性に堪えられない現代人の救いとなった
「フロイトの『無意識』の発見に出会うということは、ひび割れだらけの近現代の精神史の中から理性に堪え得ず無意識にすがるようになった近代人としての自己像をひきずり出してくることである・・今を生きている自分の現実をそのように知り直すということである・・」p10(2)

・フロイトの『無意識』をラカンで知り直し、人間の本質を探る
「一部にはもう古くなっているかもしれないと思われているようなフロイトの発見を、ラカンの知を通して改めて展開しようとするのはそのためである・・近現代の中で人間が繰り返し自己を問うことによって作り上げてきた、神や仏に守られていない裸の自己像ーそれがかつての『エディプス』であれ今様の『機械(ロボット)』であれー再構成し、このような自己像が、現に進みつつある社会の変化の中で何を食べて生きているのかを確かめよう・・前近代の『神』も近代の『理性』も破綻した嘯き(うそぶき)ながら、それでも『近代の後』を生きようとしているこの私たちはいったい誰なのかを、問い糺して(ただして)みよう・・」p10(3)

・フロイトとラカンは人間を現実に取り戻すための哲学
「ラカンとフロイトはともに人間に『現実』を取り戻させるための思想を構築しようとした人たちだったからである・・いつでも金力があれば食べることができる経済システムを守ったり、いつでも映像があれば性欲を満たすように自分をサイボーグ化することに協力するのが彼らの思想ではなかった・・現代では金力と映像があれば食物も人間も要らないいわゆるヴァーチャルな理想郷を目指そうとして社会が一丸となって努力しているかのように見える・・経済システムと映像網に絡め取られていながらも・・その籠路の身の上こそ現実と繋がる道であるち信じる人間の姿には、彼らならずとも誰でもが、あやしい物狂おしさに覚えずにはいられないだろう・・」p10(11)

・『無意識』の概念の追求は病から発症する物狂について
「彼らの無意識の概念は、病においてその極に至るこの物狂おしさを解明するためにある・・人間が自己の『現実』を取り戻そうとしたときに、人間の方にやってくるのが『狂える物』であることを彼らは知った・・」p11(1)

・人間は『物』の形を知らないという無意識の世界で知っている
「人間の『現実』の姿は、そうした『物』の形で人間自身に帰ってくる・・人間はそのことを、『知らない』という形で・・『無意識』の名のもとに知っているのである・・夢を分析することが『無意識への王道』であるとすれば、ひるがえってその無意識は、人間を『現実』へと繋ぎ戻すメビウスの道である・・」p11(3)

*人間はどうして夢と現実を区別できるのか?

・人々の深刻な問いは、心の中の現実世界
「この世の現実よりも大事な現実が心の中にあるのかどうか・・心が現実に勝る価値を含んでいるのかどうかということは、おそらく多くの人々にとっての、隠れた・・何にもまして深刻な問いなのではなかろうか・・フロイトが『心的現実』という言葉を用いたことから、この問いは加速したように思われる・・生活の心理主義化とでもいうべき傾向が、現代の人々には多かれ少なかれ現れるようになった・・」p11(8)

・フロイト『心的現実』は『夢』に関連する
「その『心的現実』をもたらす経験として、『夢』を忘れることはできない・・『夢』の中に、普段の現実とは別に、もう一つの『現実』があるのなら、私たちは日常の現実をそれほど絶対視して生きていく必要はないことになる・・『夢』という言葉は実際の夢の他にも漠然とした希望のことを指して用いられることがあるが、そのような用法も、『夢』の含む心的現実に立脚せずには成り立ちえない・・」p14(11)

・私たちは『夢』を大切にする文化的伝統がある
「かえりみれば、私たちはそのような意味での『夢』を大いに大切にする文化的伝統の中に生きている・・思想や文学の中で、『夢』はしばしば本来の現実を相対化する力を与えられてきた・・夢か現(うつつ)かをわざとあいまいにしてその境界線上を彷徨わせるような多くの名句や名作に、私たちは囲まれている・・」p12(2)

・日本には夢を語る文学作品がたくさん残されている
「ちょっと思い出してみるだけでも、『一期は夢よ、ただ狂え』、『下天は夢』、『胡蝶の夢』などの、世間的現実に挑戦するかのような名句や、平安文学の数々の秀歌、そしてその流れ汲んだ近世、近現代の文学作品がいろいろとある・・一つだけでも例を思い起こしておくならば、『うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめにき』という歌はどうだろう・・小野小町の作とされ、意味は、『ふとうたたねしたとき、恋しい人を夢に見た・・それ以来、夢の中の路を通っていとしい人が会いに来てくれるという言い伝えを信じて、夢を頼りに暮らしていますよ』ということである・・」p12(6)

・日本文学には、仕事も忘れ、ただ夢を見て生きるという記述がある
「この歌を何度か反芻(はんすう)してみると、仕事も家事も忘れ、ただ夢を見て引きこもって暮らしている人の姿が、ありありと目に浮かぶ・・これは泉鏡花の幻想文学『春昼』に巧妙に引かれ、役目を与えられている・・夢とも現ともひとしく解釈できる出会いの経験が、恋する二人を死に導いていく・・その道行きは、本当に価値のある夢を見たなら、そのままの夢だけで生き続けるという生の選択がありうる、という思いに、人を駆り立てる・・」p12(12)

・夢について真剣に見つめてみると、現実になんらかのかかわりがある
「夢に価値があると認めるということは、単に、夢を普通の現実より大事にするというだけのことではなく、むしろそこから、この現実も結局は夢以上のものではない、という見方を導きだすということであり・・その見方を、真剣に突き詰めてみるということである・・こうして、『一期は夢』という成句が真理であり、実人生も結局は夢と本質的には違わないのだとすれば、私たちは、この人生という『夢の夢』から醒めることによってのみ、彼岸に存在する真の世界に赴くことになるわけである・・実際それは、仏教の教えを通じて繰り返し私たちに親しみと慰め、さらには生き甲斐を与えてきた人生観である・・厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)の思想である・・」p12(17)

・現実の苦しさが主観なら夢は現実を相対化するため
「こうして、現実と夢の関係から導か出された人生観は、確かに一筋の正しさに貫かれているように思われる・・現実の苦しさや不条理に対して、心がおのれを高く持しておくことが人生には必要なのだとしたら、夢が現実を相対化するために動員されることは、正当性があるだろうということである・・私たちはそのようにして尊厳を与えられた心の概念をそのまま受け入れるべきなのだろうか?フロイトの『心的現実』という言葉が意図したこともそこにあったのだろうか?フロイトの概念は、仏教がすでに広めていたことに吸収されてしまうのだろうか?・・」p13(7)

・フロイトの著作は仏教の悟りのように論理展開ではない
「ややもするとそのように見える・・ぎりぎりのところで、『現実』をめぐって考え方が分かれる・・『人生は夢のようなものだ』とか『真の生命は彼岸にこそある』という認識は、精神分析の途上でより身近に感じられるようになるかもしれないし、その意味では、確かに精神分析は東洋的な悟りに私たちを近づけてくれるかもしれない・・フロイトの著作の論理展開は、けっして私たちがそのような悟りを目指して読み進めるようには作られていない・・」p13(13)

・フロイトの『心的現実』は記憶の暗部に導くことが真の冥界へ
「たとえば、夢を神意の伝達として受け入れていた世の中と、夢を脳の活動として捉えることを好む世の中とでは、『心的現実』の位置づけは大きく異ならざるをえない・・たとえ『心的な現実』の存在を認めたとしても、今ではそれをたちまち『現実』の上位に置くことはできない・・フロイトは『夢解釈(夢判断)』の末尾に、『天上の神々を動かしえずんば冥界を動かさん』という古典の句を引いて著作の締めとしたが、ここからもわかるように、神意につながることを目指すのではなく、冥界・・記憶の暗部に赴くことが夢の精神分析の方向づけなのである・・そこを通って『現実』に至るという方向づけだけが、はっきりと開拓されている・・」p14(1)

・フロイト『心的現実』は物理的現実とは違う心の『現実』
「こうしてフロイトが執拗に探し求めているのは、あくまでも『現実』、しいて言うなら、かつて在ったであろう『現実』であり、『心的現実』という彼の思想は、『心』に優位を与えて、世事は軽蔑して済ましておくということを意味しない・・『心的現実』は、物理的現実とは違う心の『現実』なのだから、たとえばそれを『魂』という言葉で置き換えてもよいように見える・・このような道を、フロイトは採らなかった・・」p14(8)

・フロイトの信念;『魂』を上位にすると『現実』を再発見できなくなる
「それは、いったん『魂』の経験を現実経験よりも上に置くと、原理的に、『現実』を再発見する論理を立てることはできなくなり、そこから私たちは坂を転げ落ちるように、自分のどんな経験も、夢と等しいものだと見なさざるを得ないように導かれていくからである・・都合のよいときだけ『魂』を持ち出すような口先だけのお話や、『根性』という意味で、『魂』を語る精神論は論外である・・フロイトが考えた『心的現実』は、『霊的』という意味での『心的』なもの・・何であれ私たちの想像力の中にあるとされる後生大事なもののことではなく、あくまでも『現実』の名に値する何かであることを見逃してはならない・・」p14(12)

・フロイトは生物学者であり『現実吟味』という概念がある
「実際、フロイトには『現実吟味』という重要な概念がある・・フロイトは生物学者でもあったから、生命体が生命を維持するのにどのようにするのかということをよく見ていた・・もし、生命体が、自分が頭に思い描く表象と、現実の知覚とを、同列に扱うとすればどうなるだろう・・その生命体は、まもなく滅びてしまうことだろう・・表象はえてして生命体が楽になることだけを目標として世界を作り、生命体に現実を見させず、錯覚に導くからである・・」p15(2)

・生命体に真の現実を見させる再発見の表象作りに向かうべき
「生命体は錯覚を現実よりも愛するようになってしまう・・このような失態を犯す可能性が最も高いのは他ならぬ人間という生命体である・・夢というものは、人間にとって、知覚と見まごうものである・・眠りから覚めたあとでさえ、夢を希望という言葉で置き換えて、現実よりも錯覚を高く位置づける性向が人間にはある・・フロイトは、『一期は夢』という世界観が生まれる理由をよく知っていたのである・・」p15(6)

・フロイトの治療情熱は人生観の破壊から現実に接する方法を再発見すること
「フロイトが『現実吟味』という言葉ではっきり認めるようとしているのは、人間がこれまで生きて来られた以上は、人間がどこかでこの表象による人生観を内側から破壊して、現実に接する方法を会得した時点があったはずだということである・・その過程がどのようにして可能になったのかを解明し、その過程を再現することで、病める人々に現実を取り戻させようとしているのがフロイトの治療的情熱である・・人間とは、『現実を操る知能があったから生き延びられた種』なのではなく、『現実を操れるという錯覚を抱いて滅びてしまう危険があったのに、それにもかかわらず生き延びてきた種』なのである・・これがフロイトの人間観であり、人間への信頼の基礎である・・」p15(11)

 

人間とは、『現実を操る知能があったから生き延びられた種』ではなく、『現実を操れるという錯覚を抱いて滅びてしまう危険があったのに、それにもかかわらず生き延びてきた種』である。

・錯覚という偏愛をテーゼにすると一生つきまとうぐらいの大きなもの
「人間をこのように見ることは必ずしも一般的ではないだろう・・錯覚というものに対する人間の偏愛の執拗さを知る者にとっては、そこからどうして逃れうるのかという問いをいったん立てた以上は、それを一生涯考え続けねばならないほど、それは本質的な問いとなる・・フロイトは、精神科医としての経験から、錯覚に安住するという人間の能力に驚くと同時に、そのようにして束の間の慰撫(いぶ)を得るしかない人間の弱さに限りない共感を持った・・」p16(1)

・夢から錯覚に安住し、そこから現実に戻ろうとする人間の心性に尊厳を持つ
「その能力を捨ててまで人間が『現実』に戻ろうとすることに、奇妙さと同時に尊さを感じたのであろう・・『心的現実』を指摘したフロイトは、『心的』なものが『現実』であると言いうることの根拠を・・『心的』なものではない真の『現実』を人間が選びとることができるようになる理由を、どうにかして見出そうとして、病める人々とともにもがき苦しんだのである・・」p16(5)

・フロイトが考えた重要な『心的現実』をラカン以前まで気づけなかった
「人間がどのようにして『現実』に到達できるのかというこの問題に<フロイトがずっと取り組み続けていたということを、ラカン以前には、人々はあまり深く考えてこなかった・・これほど重要な問題をである・・一般のフロイト解説では、そもそも鋭く対立するはずの『現実吟味』と『心的現実』は、それぞれ並べて説明してあるだけである・・現実が大事なのはおわかりでしょう、それが生存を保証するから・・」p16(10)

・フロイトがもがき苦しんだ心的研究を矛盾した説明しかしてこなかたった今日
「現実を心的作用から区別するこのような働きを『現実吟味』と呼びましょう・・現実より心がなおさら大事なものもまたおわかりでしょう、そうでなかったら人間はよい人生を送れないから・・その大事なものを『心的現実』と呼びましょう・・このような通り一遍のしかも矛盾した説明で、どうして私たちは満足してきたのだろう、フロイト自身の絶えざる問い直しに逆らってまで・・『現実吟味』と『心的現実』の間で引き裂かれている、精神分析にとっての真の現実とは、いったい何だったのだろうか・・」p16(14)

*夢が招き寄せる真の現実

・ラカンのフロイトの見直しは正統的な見通し
「ラカンはフロイト自身の思考を辿り直すことでフロイトの問いに答えうると考える・・それはラカンがフロイトを読む基本姿勢でもあり、きわめて正統的な見通しである・・フランスで独自の道を歩み始めた1964年のラカンは、1900年のフロイトの『夢解釈』において・・精神分析理論の基礎固めとなる著作において、『現実とは何か』という問いへのフロイトの答えを見出している・・精神分析の理論は・・この問いをもって出発点としたのである・・」p17(3)

精神分析の理論は、『現実とは何か』という問いが出発点。

・フロイトの『夢判断』ではある父親が夢を見た
「夢を見たのは、ある父親である・・まだ幼い彼の子どもが病気で死んだ・・父親は遺骸のそばで通夜をしていた・・遺骸の傍らには燭台(しょくだい)があって、亡骸を照らしている・・一人の老人が番をしてくれているので、父は、隣の部屋には退いて仮眠をとろうとする・・この老いた番人は大丈夫だろうかとふと不安になりながら・・」p17(10)

「父は眠った。すると亡き子が夢に現れた。そして、父の腕をつかんで言った。『お父さん、お父さんにはわかんないの!ぼくが燃えているのが!』」

・夢と現実との選択の個別性
「父の心配とおり、燭台が倒れ、遺骸に火が燃え移ったのである・・老いた番人はやはり居眠りしてしまったのだ・・燭台の倒れた音や燃え上がった火の明かりが、開けておいたドアの隙間から、父の仮眠室に差し込み、父の目を覚まさせたのである・・フロイトの言うとおり、これは心を打つ夢だる・・それは亡き子の悲痛な叫びのように聞こえるからだ・・死者は言葉を持たない・・だからこそ、彼らは、夢を通して生者の心に直接的に働きかけてくる・・この夢の話を聞いた人は、瞬間的にそう感じるだろう・・そして胸を衝かれる・・」p18(1)

・父は亡き子の訴えを夢場面へとつなげた
「ちょっと待ってほしい・・どうして、父は目を覚ましたのだろう・・燭台の倒れた音、火の明かり、といった、感覚的刺激のゆえに違いない・・夢の内容を落ち着いて吟味してみれば、この夢は、これらの刺激が素になって形成されたことが明らかである・・父は、心配どおりの危険が実際に起こってしまったことを感覚的刺激から知ったのだが、それを、亡き子が訴えているという夢場面へと作り上げて、眠りを続けたのである・・こうして、すぐに目を覚ますより、我が子との再会をほんの短い間だけでも味わうことを選んだのである・・死者からのメッセージが届いたのではなく、父自身の心配の映像化が起こったのだ・・」p18(7)

・父の夢を現実の戻すときに言い訳だと誤解釈してしまう
「ここで人はこの父に言うであろう・・そんな夢を悠長に見ている場合ではない、さっと目を覚まして、すぐに火を消し止めに行くのが、本当の父の務めというものではないのか!、と・・こうしてたちまち夢に対する評価は逆転する・・この夢は単に、父が、もう少し眠っていたいがために頭の中で作り出した言い訳にすぎないのではないかということになる・・フロイトが言うように『夢は眠りの番人』である・・子を思う映像の陰では、実は父自身の脳が、睡眠の延長によって自らの健康の保全を図っているわけである・・」p18(14)

・夢を解釈する段階で『心的現実』と『現実吟味』の交流
「このような冷徹な見方からは、現実と夢との区別ははっきりしている・・燭台が倒れた音と火の光が現実であり、それを刺激として生まれた父の夢の中の、亡き子につかまれた腕の感触、『お父さん、わかんないの!』という声、そして燃えている子の心像は、夢なのである・・人の行動は、夢ではなく現実に従わねばならないに違いないが、この夢では、あたかも、夢が現実に気づかせてくれたかのような印象が生じている・・眠りが延ばされているという利己的な側面は脇に置いて、私たちはこの夢に、感動を覚えさえもするのである・・とりあえず、そこでは、隣の部屋の火事という現実よりも。亡き子の声が聞こえるという『心的現実』のほうが大切にされたと言ってよいだろう・・『現実吟味』は後回しにされている・・」p19(4)

・フロイトはこの夢の感動から別次元の現実解釈を開始
「フロイトはこの感動の価値を認めたあと、さらに独自の解釈の深みへと踏み込んでゆく・・この夢が気づかせてくれたのは、果たしてその火事という『現実』に対してだけだったのだろうか?本当は、夢は、別の『現実』へと、夢見る父を引き寄せようとしていあたのであり、その別の『現実』へと赴こうとしたことが、ついでに、火事という緊急事態に対処することと一致しただけではないだろうか?・・」p19(13)

・フロイトの確信は、夢の中での会話はかつてのものである
「フロイトは、いくつもの夢分析の経験から『夢の中の会話は、必ず、かつて交わされた実際の会話の断片や変形である』という確信を持っていた・・彼はそれをここに当てはめる・・『お父さん、わかんないの!』

 


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本サイトの女性の心の疲れと不安を取るためのパサージュ集

女性の美意識高めるために|ショーペンハウアーの存在と苦悩で女性の心の本質をパサージュ

女性の心のイライラとストレスを解消するために|神話が女性に語りかけることをパサージュ

ベートーベンを乗り越えたリヒャルト・ワーグナー|女性の心を癒すオキシトシンを増やすパサージュ

女性の悩み解決に近づくには|フリッチョフシュオンの秘儀と信仰の哲学で女性の悩みへパサージュ


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tak

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