女性の心を落ち着かせる言葉

女性の不安を解消するための哲学|シュオンの形而上学で女性の不安をパサージュ

投稿日:2017年11月25日 更新日:

女性の不安を解消するための哲学をシュオンの形而上学から考える

・形而上学とエゾテリスム;フリッチョフ・シュオン

*序文

「全著書を通じてわれわれは明示的ないし暗黙裡に永遠の宗教を扱ってきた。それを一方では覆い隠すと共に他方では顕示せしめる様々な諸宗教との関連において。そして断続的で散発的な言及の仕方にもかかわらず、この原初の普遍的叡智の統一的かつ十分な説明を与えてきたと信じる。しかし永遠の叡智は明らかに汲み尽くし得ないものであり、いかなる本性上の限界も有していない。ヴェーダーンタのような体系的表現においてすらそうなのである。さらにこの体系的性格は利点でもなければ欠点でもない。内容によってそれはどちらにもなり得る。真理はそのあらゆる形態において美しい。事実、体系的でない偉大な教義というものはないし、専ら体系的な仕方でのみ自らを表現する教義というものもない。
表現され得る全てを余す所なく述べ尽くすことは不可能であるゆえに、そして形而上学的な事項における反復は誤謬ではあり得ないがゆえにー十分に明晰でないよりも明晰でありすぎるほうがよいーいつもの主題に立ち戻ることができようとわれわれは信じた。まだ語っていない事を提供するか、あるいは既に語った事を有用な新しいやり方で説明することのよって。定義上抽象的な教義の根本的要素が、事物の本性上多かれ少なかれ限定されているとしてもーこれはまさしく体系の定義である。なぜなら一つの整った結晶の形態的要素は無数では有り得ないのだからーこのことは説明や適用にはあてはまらない。それらは際限がなく、それらの機能は一見したところ十分に具体的ではないように見えることをより良く把握させることである。
もう一つ指摘しておこう。これは多かれ少なかれ個人的な次元のものである。われわれは人がその内容の幼稚さに恥じることなく二足す二は四であると言明する事ができた時代に育った。心理学や生物学やいわゆる社会学その他を通過せずに初歩的な論理の法則や常識に従うことができた時代、要するに人間の知的備蓄の中に参照点がまだ存在していた時代に。このことによって指摘したいのは、われわれの考え方や論じ方は意図的に古風なものである、ということである。そしてわれわれはあらかじめ次の事を知っているーなぜならそれはあまりにも明白であるからだがー対象としている読者はそのゆえにわれわれに感謝するであろうことを。

序論;認識論的前提

「教義について語る時、まず第一に人はーそして正当にもそうするのだがー相互に調和する諸概念の提示のことを考える。しかしそれに加えて問題になっている体系の認識論的側面をも考慮にはいらなければならない。教義の一部分でもあるこの次元を、われわれは序論という仕方でここで検討したいと思う。
まず始めに、言わば『心の奥底』に埋まっているかのように人間精神に本有的に備わっている諸真理がある、ということを知っておくことが不可欠である。すなわち、それらの真理は諸可能性あるいは潜在性として純粋知性の中に含まれている、ということである。これらは原理的にして原型的真理あり、他のすべてをあらかじめかたどり決定づける。それらは直観的かつ不可謬的に『知覚者』『霊的人間』『神智学者』ーこれらの言葉の正しい原義におけるーによって到達され得る。そしてそれゆえそれらはまた言葉の字義的で意味における『哲学者』にも到達可能である。例えばピタゴラスやプラトン、そして彼の外面的で事実上科学主義的観点にもかかわらず、ある程度までアリストテレスにも。」
「そしてこれは最も重要な事である。もし純粋知性ー内在する霊の直観的かつ不可謬の能力ーというものがないとすれば、理性というものないであろう。なぜなら推論の奇蹟は知性認識の奇蹟によってのみ説明され正当化され得るからである。動物は理性を持たない。なぜなら彼等は絶対なるものを理解できないからある。別の言葉で言うと、人間が言語と共に理性を持っているならば、それはただ彼が原理上、現実なるものの超理性的観照へ、それゆえ形而上学的確実性へ到達できるからである。動物の知性は部分的であり人間の知性は全体的である。そしてこの全体性は、その知性にふさわしい超越的現実によってのみ説明される。
それゆえ唯物論と不可知論の決定的な誤りは、物質的事物とわれわれの生活の通常の経験はわれわれの知性の視野のはるか下方にあるという事実に対して盲目であることである。もし唯物論者が正しいとすれば、この知性は説明不能の贅沢品であろう。絶対なるものがなければ、それを概念を持つ能力は無根拠であろう。絶対なるものは真理はわれわれの精神の実質そのものと一致する。諸々の宗教は、われわれの最内奥の主観性に含まれているものを客観的現実化する。マクロコスモスにとっての啓示は、ミクロコスモスにとっての知性認識である。超越的なるものは世界に内在しており、そうでなければ世界は存在し得ないであろう。内在的なるものは個体との関係において超越しており、そうでなければそれは個体にすぎないであろう。」
「人間の知性の視野について今言った事は意志についてもあてはまる。自由意志はその本質的目標の超越性を証明するという意味において。その本質的目標のために人間は創造され、それによって人間は人間である。人間の意志は神に対してふさわしいものであり、それが完全に自由であるのはただ神においてのみ、神によってのみなのである。同様の事を人間の魂についても言うことができよう。われわれの魂は神を証明する。なぜならそれは神的本性にふさわしいものであり、そしてそれがそうであるのは慈悲によって、無私の愛によって、寛大さによって、そしてこれらの人間本性の基礎ー神的本性の像ーに、永遠の宗教そしてそれと共に全ての宗教と全ての知恵は根差しているのである。」
「『識別する』ことは『分ける』ことである。現実なるものと可能的なるもの、自己(アートマン)と幻影(マーヤ)を分けること。識別することは、『合一せしめる』ところの『集中』相補的そして作用的に結び付けられている。『集中』とはー地上的人間幻影から出発するー絶対、無限、完全なる自己の十全なる自覚である。それに比するものなく、限界なく、欠点なき自己の。ある教会教父達によれば、『神が人間となったのは人間が神となるためである。』この大胆さかつ簡潔な定式をわれわれはヴェーダーンタ的な言い方で言い換えよう。幻影的なるものが現実的なるものになるためには、現実的なるものは幻影的なるものになった。幻影が自己を認識するために自己は自らを幻影にした。絶対なるものは、その溢れる完全性において、偶発的なるものを投影し、その中に自らを反映せしめるのである。交互関係の戯れの中で。絶対なるものは、それがのみ有るところのものとして、勝利者として、その中から現れ出るだろう。」
「世界の中には知られるものと知るものがある。自己においては二つの極は一致しており、一方は分離し得ない仕方で他方の中にある。これに対して幻影においては、この一致は主体と客体に分かれる。観点あるいは側面によって、自己は絶対的な『意識』ー普遍的な『見者』、純粋な『主体』ーであり、または絶対的な『有』『実体』純粋にして超越的な『客体』である。それは『現実』として知られ得るものであるが、内在する『知る者』でもあるー先ずは位格的なものから存在的なもの、存在せしめられたものに至る、自己自身の全ての諸可能性の認識者である。」
「そして人間にとってこのことは決定的に重要である。『全て』の認識は人間の側に認識の全面性を要求する。なぜなら思考は部分であって全てではないからである。そしてこれはあらゆる霊的生活の目標を指し示している。絶対なるものを心に抱く者ーあるいは、神を信じる者ーは、思考だけによって実現されたこの知識あるいは信仰のみにとどまることは権利上できないのである。全く逆に彼は彼の全てを現実なるものへの帰依に統合せねばならないのであるーまさしく、その絶対性と無限性がそれを要求するごとくに。人間は『彼がそうであるところのものに』ならなければならない。なぜなら彼は『有るところのものに』ならなければならないからである。『魂は、それが知る全てのものである』とアリストテレスは語っている。」
「さらに人間は思考する存在であるばかりではなく、意志する存在でもある。これはすなわち知性の全面性は意志の自由を含意しているということである。絶対なるもののうちにあらかじめそなえられている目的がないとしたら、この自由は無意味であろう。神とわれわれの最終目的についての知識がないとしたら、それは可能ではないし有用でもないだろう。
人間は思考、意志、愛からできている。彼は真理あるいは誤謬を考えることができ、善あるいは悪を意志することができ、美あるいは醜を愛することができる。さて、真なるものの思考ーあるいは、現実なるものの知識ーは、一方では善なるものへの意志を、他方では美なるものへの愛を、すなわち美徳を要求する。なぜなら美徳とは魂の美にほかならないからである。思想家であるとともに美学者であったギリシア人達が、美徳を哲学のうちに含めたのはこのゆえである。魂の美がなければ、あらゆる意志は不毛である。それは卑しく(いやしく)、自らの恩籠に対して閉ざす。そして同様に、意志の努力がなければ、あらゆる霊的な思考は究極的に表面的で実効の無いものにとどまり、自惚れへと導く。美徳は真理に調和したーあるいは適合したー感性と一致する。そしてそれゆえの賢人の魂は事物を高く越えて飛翔し、そのことによって言わば自分自身をも越えて行くのである。偉大なる魂達の無私、高貴さ、寛大さはそれに由来する。全く明らかなことだが、形而上学的原理の意識は、野心や偽善のような道徳的な卑しさと相容れない。」

『天の御父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となれ。』

・神が有するものと世界が可能なものの差異
「人間が知り考えねばならないことがある。そして人間が意志し行わねばならないことがある。そして人間が愛し、そうならねばならないことがある。彼は神が必然的な有であり、それゆえそれ自身で自足しているということ、すなわち神はないことが不可能なものであり、これに対して世界は単に可能なもの、あることもないこともできるものであるということを知らねばならない。他の全ての区別と評価はこの根本的な区別から派生する。これに加えて人間は自分を神から遠ざけるものを避けつつ自分を直接的あるいは間接的に神に近づけるものを意志せねばならない。」

・神への形而上学的瞑想
「この意志の主要な内容は祈り、神への応えであり、それは神秘的集中と形而上学的瞑想を含んでいる。最後に、人間は神的な美を例証するもの、より一般的には神の本性に適合する全てを『神において』愛さなければならない。彼は善を愛さなければならない。すなわち規範を、そのあらゆる可能な形態において。」

・神から授与された規範自分自身の限界を超越する
「そして規範は必然的に自我(エゴ)の諸限界を超越するがゆえに、人間は自分自身の限界を超越するように努めなければならない。規範あるいは原型を、その反映よりも、すなわち偶然的な自我よりも愛することが必要なのである。そして魂の高貴さの全てをなすものは、この自己認識と無私なのである。」

・常に提議されてきた疑問
「形而上学的現実は必ず表現可能であるのか、あるいは少なくとも逆説や不条理によってのみ表現可能な神秘的な状況というものがあるのではないか?あまりにもしばしば、この議論は神学的教説の欠点を覆い隠すために使われてきた。その主観的不完全性が客体化されてきたのである。ある謎を解くことができないがゆえに人は『人間精神』にはそれは不可能であると宣言し、そして責めは主としてー『アリストテレス的』あるいはその他のー論理に帰されるのである。あたかも論理が、合理主義、懐疑、無知の同義語であるかにように。」

・自然の事物と超自然的事物の水平には同じデータで推測
「自然の事物の水平においては必要なデータを入手し正しく推論するだけで十分である。同じ条件は超自然的事物の水平においてもあてはまる。ただこの場合、思考の対象は知性認識ー内なる照明ーの介入を必要とするという違いがある。なぜなら、もし自然的事物が推論そのものとは独立したある種の直観を必要とするとすれば、超自然事物はなおのことより高度な直観を必要とするであろうから。それらは感覚には捉えきれないものだからである。何度も言って来たように、理性は依拠するデータがなければ何もできないのであり、それらの不在の下では空しく推論することになる。」

・データは理性が依拠し客観的な世界を作る
「これらのデータは第一にそれ自体としては客観的な世界によって与えられる。第三に啓示によって与えられる。それは世界と同様、客観的なものである。なぜならそれはわれわれの外部から来るものだから。第四に知性認識によって与えられる。それはわれわれの内で生み出されるゆえに主観的なものである。」

 自然の事物と超自然的事物のデータでわかる四つのこと

 ・客観的な世界によって与えられる                  
 ・先の要素との結合のうちに、それ自体としては主観的な経験によって与えられる                                 ・啓示によって与えられる(世界と同様、客観的なもの)         ・知性認識によって与えられる(われわれの内で生み出されるゆえに主観的なもの)

・実存主義は自己矛盾
「あらゆる相対主義と同様、実存主義は自己矛盾である。自らを合理主義の偉大なる敵対者であると想像して、実存主義は推論の地位に経験を置くーなぜ推論が存在するのか、あるいはいかにして経験が推論に頼ることなく称揚されうるのか、全く考えもせずに。推論が有効なものであるということを証明するのはまさしく経験そのものであり、そうでなければ誰も推論などしないであろう。そして理性の存在そのものが、この能力が対象を持っているはずであるということを明らかに示している。動物は多くのことを経験するであろうが、彼等は推論をしない。一方人間は逆に推論によって多くの経験を避けることができる。推論の経験による置き換えは、実践的水平においては、そして相対的な意味では、なお意味を持ちうるであろう。しかし経験主義者や実存主義者が望むごとく知的思弁的水平においてそれを実行することは、まさしく狂気である。低俗な人間にとっては偶然的なものが現実的であり、彼は原理を単純に否定しない場合にはそれを彼のやり方で偶然的事物のレベルにまで引き下げようとするのである。このシュードラの心性はキリスト教神学に侵入し、周知の荒廃をもたらしている。」

・霊的認識論の問題
「疑いもなく論理は限界を有している。しかし論理はこの言明を率先して支持するのであって、さもなければこの言明はまさしく論理的でないことになろう。しかしながら論理の限界は事物の本性によるものであって、特定宗派の命令によるものではない。空間や時間の限り無さは、論理がそれが具体的かつ徹底的な仕方で説明することができないという点で、不条理なものに見えよう。しかし、この二つの限り無さが存在するということを認めることは完全に論理的である。そしてこの現象が原理的な無限から由来するということを確信を持って知ることを、いかなる論理も妨げはしない」

・原理的無限は思考が到達しない領域
「原理的無限、それはわれわれの思考が探求し得ない神秘であり、それはまさしく空間の広がりや時間的転変あるいはまた数の無限性によって顕現されるのである。同様に自我の経験的唯一性ー他でもなくこの自我であり、『それ自身』である唯一のものであるという事実ーは、論理によって具体的に説明することはできない。しかしなお論理は、それを抽象的な仕方で表現することはできない。しかしなお論理は、それを抽象的な仕方で表現することは完全にできるのである。必然的なるものの原理の助けのもとに、不条理性の陥穽(かんせい)を回避することによって。」

・世の中を作り上げている逸脱と歪まされたキリストの知恵
「キリストの知恵が『世の中には愚かなもの』であるとしたら、それは『世』が『あなたがたの内にある神の国』に対立するものであるからであり、それ以外の理由はない。無意味なことを主張する不可思議な権利をそれが主張するからでは決してない。それは馬鹿げたことである。キリストの知恵が『愚か』であるのは、強欲な人間や罪人、誤謬に陥った人間を特徴づける、気を散らし頑なにする外向的逸脱はその飽くことなき科学的哲学的好奇心とともにイブとアダムの罪を永続化しそれを無数に多様な仕方で反復しているのである。」

・本当に経験が正しいのかどうかのテーゼ
「宗教的論争の水平においては、いわゆる超論理的な、しかし実際は客観的に検証不能な『聖霊論』の名のもとに、非論理性の独占所有権を主張し反対論者の初歩的論理に悪魔的誤謬を帰する主張は、明白に受け入れがたい、とわれわれは言明する。なぜならそれは単なる蒙昧主義者の独白にすぎず、同時にまさしくその主観主義によって諸刃の剣だからである。あらゆる対話は不可能になり、さらにそのことが相手に改心を免れさせる。なぜなら人間は人間の思考の法則を捨て去ることを主張する教えに負うものは何もないからである。他方において、単なる主観的経験の事実は決して有効な教義的論拠を提供しない。経験が正しいならば、それは常に自らを満足の行くあるいは少なくとも十分な仕方で表現することが可能である。」

・形而上学的真理の表現の本質とは
「形而上学的真理は表現可能であると共に表現不可能である。表現不可能であるけれども、それは不可知ではない。なぜなら知性は神的領域に向けて開かれており、それゆえ、あるところのもの全てを含んでいるからである。そして表現可能であり、定式のうちに結晶化される。定式はそれらがそうあるべきところのもの全てである。なぜならそれらは、われわれの精神にとって必要あるいは有用な全てのものを伝えるからである。思考において、言語において、そしてまたその他のあらゆる象徴体系において、形態は本質への扉なのである。」

フリッチョフ・シュオンの生涯について
フリッチョフ・シュオンの生涯をお読みください。
シュオンに関わった主要な人物は次の記事を参考にしてください。
マイスター・エックハルト

 


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なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

その文献引用をパサージュ集と命名しています。
パサージュ集についての、コンセプトは次の記述をご覧ください。
女性の心を癒す落ちつかせるパサージュ|女性の不安を取る励ますための実践的哲学
パサージュ集は、本を読まなくなっている今世紀に重要な価値を女性であるあなたに与えることになるでしょう。
女性は、男性とは違ってホルモンの生成が年齢に関係なく豊富であり、今日まで信じられていた美意識は、性的な愛や恋に捉えれていましたが、実はそうではなく、知的欲求に性的欲求があることを本サイトが証明していっています。
女性は、知的欲求を磨くと、驚くほど、美しくなり、輝き、オーラが現れ、自己が確立して、生き方が変わっていきます。
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本サイトはそのような事情をふまえて、コンテンツを中心に記載し、その文脈も哲学性がないものはまったく採用しておりません。
本サイトを運営する哲学性を持つ専門者が、吟味して、あなたの生きる時間を想像して選出しており、アナログで入力するため、未完成のままであります。
随時、更新させていきますので、ぜひご活用頂ければなと存じます。


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tak

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