女性の心を落ち着かせる言葉

シモーヌヴェイヌの哲学で女性の幸福に生きる女性のための哲学をパサージュ

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シモーヌヴェイヌの哲学で女性のための幸福を追求した女性のための哲学をパサージュ

・超自然的認識;シモーヌ・ヴェイヌー勁草書房

神秘主義的傾向を一層強め、教会への批判も鮮明となった最後期のノートより。

La Connaissance Surnaturelle

*プロローグ

『かれはわたしの部屋へはいってきて、こういった。『なにも理解せず、なにも知らぬあわれな者よ。わたしといっしょに来なさい。おまえが思ってもみないことを教えてあげよう。』わたしは、かれのあとについて行った。
かれは、わたしをとある教会へ連れてきた。新しいが、あまり美しくない教会だった。かれは、わたしを祭壇の前までみちびいてくるとこういった。『ひざまずきなさい。』わたしはこたえた、『まだ洗礼を受けておりません』。かれはいった。『真理が存在する場所の前に出たときと同じように、愛をこめてこの場所の前でひざまずきなさい』と。わたしは、いいつけられたとおりにした。
かれは、外に出なさいといい、こんどは屋根裏の一室へ上らせた。そこからは、開いた窓ごしに、町の全体が、材木を組んだいくつかの足場が、荷おろしをしている船が何隻かもやってある川が見えた。かれは、すわりなさいといった。
わたしたちはふたりのほかに、誰もいなかった。かれは話した。ときどき、誰か入ってきて、会話に加わったが、すぐにまた、出て行った。
もう冬とはいえない頃だった。といって、まだ春にはなっていなかった。木々の枝は、まだ蕾をつけず、裸のまま、冷たい空気の中で、日ざしを浴びていた。
光がさしのぼってきて、輝きを放ち、そして薄らいで行った。そのあと、星と月とが窓から入りこんできた。それからまた新しく、明けの光がのぼってきた。
ときどき、かれは黙りこんで、戸棚からパンをとり出してきて、わたしたちは分けあって食べた。そのパンは、まさしくパンの味がした。その味には二度と再び出あうことがなかった。
かれは、わたしにぶどう酒をついでくれ、また自分にもついだ。太陽の匂い、その町が建っている大地の匂いがするぶどう酒だった。
ときどき、わたしたちは、その屋根裏部屋の床の上に横になった。甘い眠りがわたしの上にくだってくるのだった。そして、目がさめると、わたしは太陽の光を吸い込んだ。
かれは、教えをさずけようと約束していたのに、なにも教えてくれなかった。わたしたちは、古い友だちどおしのように、とりとめもなく、種々雑多なことを話しあった。
ある日、かれはいった。『さあ、もう行きなさい』と。わたしはひざまずいて、かれの足に接吻をし、どうかわたしをいかせないでくださいと切にねがった。だが、かれはわたしを階段の方へと抛り出した。わたしは、何もわからず、心は千々に砕かれて、階段を下りて行った。いくつもの通りを通りすぎた。そして、あの家がどこかにあったのかを、自分が全然知らずにいることに気がついた。
もう一度あの家を見つけ出してみようとは、決してしなかった。かれがわたしを連れにきてくれたのはあやまりだったのだと、さとっていた。わたしのいる場所は、この屋根裏部屋ではない。それはどこだっていい。刑務所の独房でも、つまらぬ装飾品やピロードで飾りたてたブルジョワの客間の一室でも、駅の待合室でもいい。どこだっていいのだ。だが、この屋根裏部屋ではない。
ときとして、わたしは、おそれと後悔の気持をおさえかねながら、かれがわたしにいったことを少しばかり、自分で自分にもう一度いいきかせてみずにいられないことがある。わたしがきちんと正確におぼえていると、どうしてわかるだろう。そうわたしにいってくれる、かれはもういないのだ。
かれがわたしを愛していないことは、よくわかっている。どうして、かれがわたしを愛してくれるはずがあるだろうか。それにもかかわらず、なおかつ、おそらくかれはわたしを愛してくれているらしいと、わたしの中で奥深くの何ものかが、わたしの中の一点が、おそろしさにふるえながら、そう考えずにはいられないのだ。

アメリカ・ノート(1942年5月〜11月)

・キリストの復活はゆるし
「復活は、自分を殺した者に対するキリストのゆるしであり、自分に対してありうるかぎりのどんな悪を加えようとも、結局なんの悪を加えたことにもならないのだという保証である・・悪はただ、清い存在においてだけ感じられるのである・・だが、そこにおいて、悪は具体的には存在しない。悪は、存在しないところにおいて、感じられる。悪を感じることは、悪ではない。」p8(1)

『悪は、奥義の根源であるとすれば、苦痛は、知識の根源である。』

・復活節は苦痛よりも下にして舞うよろこび
「復活節のよろこびは、苦痛のあとにくるよろこびではない・・束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出あいではない・・それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するものである・・グレゴリオ聖歌においては(『たたえよ、祝いの日・・』)、うたそのものが、このことを明らかに示す・・苦痛とよろこびが、完全な均衡状態にある・・苦痛は、よろこびの逆であるが、よろこびは、苦痛の逆ではない・・」p8(7)

・呪いとは、清くあるべき
「呪いをこうむっても、それを他に移す人は、自分の中心を入りこませることがない・・呪いを感じとることもない・・呪いがとどまる人、呪いをとどmwる人、そういう人にあっては、呪いは、その人の中心へ入りこむ・・その人は、呪いとなる(ガラテヤ3・13)・・呪いとなるには、清くあらなければならない・・」p8(13)

・呪いと清いは充ち溢れるよろこびがいる
「ひとりの人が、呪いとなることができるまで清くなるためには、充ち溢れるよろこびが必要である・・苦痛とよろこびとが代る代るあらわれるとき、ひとりの人は清くされて、ついには、呪いとなることができるまでに清くなる・・同時にその人の中には、充ち溢れる苦痛が、さらには、それをはるかに越えて、充ち溢れるよろこびが生じる・・」p8(15)

・『イリアス』におけるアテーとプロメテウス
「アテーは走る、人間の頭上を、爪先でとびながら、頭から頭へと・・誰かひとりの人が、その足をとめるまで・・そのとき、アテーは、その人の中へはいりこむ・・『イリアス』においては、誰も彼女をとめる者がない・・プロメテウスは、彼女をとめる・・ふつう一般の人々(すなわちあがなう者でない人々)においては、不幸は、この人たちをさしつらぬくことなく、その上を通りすぎる・・しかしながら、その人たちを変化させる・・その人たちを砕き去る・・Bは、電車を待っている時、わが身の不幸を感じる・・あまりにもつらい労役を強制されたために成長をやめた子どもといったふうに、不幸のためにいつまでも子どもと同じ状態でいるJ・B・・(おそらくは、詩人ジョー・ブスケのこと)・・」p9(2)

・聖盃(せいはい)物語の本質はキリスト教とスペイン系ケルト民族の伝統
「円卓(アーサー王配下の騎士にものすわったテーブル)・・このテーブルにすわるのは、展望を見失なうことである・・視点をなくして、普遍なものを拠り所に立つことである・・聖盃物語の本質が、キリスト教思想と、スペイン系ケルト民族の伝統との同一化にあることはまったく明らかである・・『聖盃の探索』において、イスラエルは、マルキオン(初代教会のグノーシス的傾向をもつ異端児)やマニ教徒(ペルシア人マニの説いた二元論的宗教)の伝承に従って、悪とみなされている・・サラス(ツロか、シドンか)は、何にもまして霊的な都市である・・」p9(11)

・神の受難以前の創造
「円と三位一体と、円の定義、三つの点によってなされる・・直線は、二つの点によって・・すでに受難以前に、すでに創造を通じて、神は自分の神性を脱ぎすて、自分を低くし、奴隷のかたちをとった・・現実と想像の上での転移・・JB・・」p10(1)

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tak

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