女性の心を落ち着かせる言葉

女性の美意識高めるために|ショーペンハウアーの存在と苦悩で女性の心の本質をパサージュ

投稿日:

女性の終わりなき美意識を高め、磨き、美しくなるために。ショーペンハウアーの存在と苦悩からパサージュ

・存在と苦悩;ショーペンハウアーー白水Uブックス

意志の不滅について

*生殖と死

・首尾一貫している自然は人間の生殖行為の本質的意義を示してくれる
「肉体そのものの力で肉体を保つことは、同じ意志の肯定のなかでも程度が低い・・そのため、もし意志が勝手にそうなることが許されているならば、肉体の死滅とともに、肉体のなかに現象した意志も消滅するということになる・・既に性欲を満たすことからして、短期間しか続かないおのれの生存の肯定以上のものであり、個人の死を超越したかぎりなき時間における生を肯定することになる・・常に真実であり、首尾一貫している自然は、この場合には全く無邪気そのもので、あからさまに生殖行為の本質的意義をわれわれに示してくれる・・」p95(1)

・生殖行為で生への意志の肯定の表現を教えてくれる
「生殖行為についてのわれわれ自身の意識や性欲の激しさは、生殖行為のなかで決定的な生への意志の肯定が、純粋に(ほかの個人の否定といった)よけいな付加物なしに表現されることを教えてくれる・・かくて時間と因果の系列ななかで・・自然のなかで、生殖行為の結果としての新しき生命が現われる・・確かに現象面では生まれた者は生みの親とは違ったものであるが、それ自体をとってみると、あるいは理念に従えば生まれた者は生みの親と同一である・・」p95(7)

・生殖における生みの親と生まれた者の立場
「生きとし生ける者の種族が各個人を全体に結びつけ、このようなぐあいにして、永遠に続いてゆくことができるのは、この生殖行為のおかげである・・生殖は、生みの親の立場からすれば、おのれの決定的な生への意志肯定の表現または兆候にすぎず、一方生まれた者の立場からすれば、生殖はその生まれた者のなかに現象する意志の根拠ではない・・それは意志がそれ自体としてはなんらの根拠も結果も知らないからである・・」p96(2)

女性の生きる力を心に転換するには;女性の内部構造で発生する欲望からの欲求の意志のコントロールが不可能なものであることを知りつつ、その不可能なものにかかわりながら生の意志を確認し、探求するところに女性の美への発達につながっていく。

・生殖は意志のかりそめの原因にすぎない
「生殖といえども、他のすべての原因と同様、このとき、この場所における意志の現象のかりそめの原因にすぎない・・物自体としては生みの親の意志も、生まれた者の意志もかわらない・・物自体ではなく、ただ現象だけが個体化の原理に従っているからだ・・」p96(6)

・性交を恥ずかしがる真の理由
「おのれの肉体を通して生への意志を肯定し、新しき肉体を生むことによって、生の現象につきまとう苦しみと死も新たに新しき肉体に持ちこされる・・ここに生じた可能性を完全に認識しさえすれば、この場合には解脱しようとしても、全くむだであることがはっきりと理解される・・性交を恥ずかしがる真の理由はまさにこの点にある・・」p96(9)

・性交についてのキリスト教の教義とは
「この見解はキリスト教の教義のなかに、次のように神秘的に表現されている・・われわれはすべて(明らかに性欲の充足にすぎなかった)アダムの原罪にかかわりあいをもっており、これによって苦しみと死を受けなければならぬというのだ・・このキリスト教の教義は、この点に関しては、根拠律に従った見解を超越し、人間の理念を認識している・・人間は無数の個人に分裂していても、人間の統一は生殖というすべてのものを結びつける紐帯(ちゅうたい)によって再生させられるという理念である・・」p96(12)

・キリスト教と生殖のアダムの生の肯定
「この考えに立ってキリスト教の教義は、あらゆる個人を一方では生の肯定の代表者であるアダムと同一視し、そのかぎりにおいて罪(原罪)、苦しみ、死にゆだねられたものとしている・・他方では理念の認識に基づき、すべての個人が救世主の自己犠牲に関係し、救世主の功徳によって解脱し、罪と死・・世界のきずなから救われるかぎりにおいて、生への意志否定の代表者である救世主とも同一視している・・」p97(1)

・これまでは性欲は個人を超えた生への意志だった
「これまで、性欲の満足は個人の生命を超越した生への意志の肯定であり、性欲の満足によって個人ははじめて完全に生への意志の肯定にとらえられ・・あらためて生に身をゆだねることになると説いてきたが、この見解を神話的に表現した別の例として、プロセルピナについてのギリシア神話がある・・彼女は冥府の果実を食べないかぎり、ここから帰ることができたのだが、冥府のザクロを味わったことによって完全にここに属さざるをえなくなった・・この神話についてのゲーテの卓越した表現によって、この神話の真意がきわめて明瞭になった・・プロセルピナがザクロを味わうやいなや、パルツェ(運命の三女神)の見えざる合唱がとどろく場面がこれにあたる・・」p97(8)

『おまえはわれわれのものだ!
 食べさえしなければ、
 おまえはもどってゆくことになっていた。
 だがリンゴをかじったために、
 おまえはわれわれのものになった』

(ゲーテの詩では、ザクロではなく、リンゴとなっている)

・性欲が生を決定的に強く肯定するもの
「アレクサンドリアのクレメンス(三世紀の人。信仰哲学の樹立を試みた)が同じ問題をこれと同じ形式と同じ表現を用いて次のように記していることは、注目すべきこと・・『天国のためにあらゆる罪を断念する者は幸福である。彼らはこの世にかじりついていない。』・・性欲が自然のままに人間や動物にとって最終目的であり、生の最高の目標であるということによっても、性欲が生を決定的に最も力強く肯定するものであることが証明される・・」p98(5)

・人間は自己保存から生殖へ向かう
「自然のままの人間にとっては、自己の保存が第一の努力であるが、これが確保されたとなると、今度は種族の繁殖に立ち向かう・・単に自然のままでいるとしたら、これ以上のことは追求しようとしない・・真の本質は、生への意志がある自然も、全力で傾注して動物同様、人間を繁殖にかりたてる・・繁殖が行なわれさえすれば、自然は個人についてはその目的を果たしたことになる・・」p98(9)

・自然は個人に繁殖を果たすことが目的
「自然にとっては、個人が死滅しようと知ったことではない・・生への意志である自然にとってはただ種族の維持だけが問題であって、個人個人は物の数ではないからだ・・」p98(13)

・古代は性欲が生の本質であると自然から説いた
「性欲のなかに自然の内的本質である生への意志が最も強力に現われるために、古代の詩人や哲学者・・ヘシオドスやパルメニデスはきわめて意味深長に、エロスは最初のもの、創造するものであり、万物が源を発する原理であると言った(アリストテレス著『形而上学』一の四参照)・・フェレキデスは『ゼウスは世界をつくりあげようとしたとき、彼はエロスに変身した』と述べた(プラトン著『ティマイオス』参照)・・この対象についての詳しい解明は、最近G・F?シェーマンが1852年版の『造物者としての愛欲について』のなかで行なった・・その働きと組織が仮象の世界であるインド人のマーヤもやはり、<愛>によって説明されている・・」p98(15)

・生殖器は認識から独立した意志
「外から見える肉体のいかなる部分より以上に、生殖器は認識にではなく、単に意志に従属している・・そればかりではない・・ここでは意志は認識からほとんど独立している・・植物には単なる刺激だけによって、再生に奉仕している部分がある・・ここでは、認識とは無縁の自然界と同様、意志が盲目的に働いているが、人間の生殖器とても事情は同じである・・」p99(8)

・生殖の本質は個人個人の差異はなくただ新しい個人に移行する
「生殖はただ新しい個人に移行する再生だからである・・ちょうど死が単に次の生殖力のための排出物にすぎないように、生殖は次の生殖力のための再生・・」p99(11)

・生殖器に関する原則
「こうした事情からして、生殖器は意志の焦点であり、したがって世界の別の側面である表象としての世界・・認識の代表である頭脳とは全く対立した関係にある・・生殖器に通用する原則は、生命を保ち、無限の生のために時を確実にかせぐものである・・こうした特徴があるために、生殖器はギリシア人にあってはファルスとして、インド人にあってはリンガムとして崇拝されたが、両者はともに意志の肯定のシンボルであった・・これに反し、認識は意欲の消滅、自由による解脱、この世の克服ならびに否定の可能性を与えている・・」p99(13)

生殖器は、意志の肯定のシンボル。認識は意欲の消滅、自由による解脱、この世の克服や否定の可能性を与えている。

・生の本質。生は意志を肯定するが死を否認するわけではない
「本書の『禁欲について』の中で、われわれは生への意志が肯定されるにあたり、この生への意志が死とどんな関係にあるのか・・生への意志が死をけっして否認するものではないことを観察することにするが、死は、生のなかに既にいくばかりかのかかわりあいをもっており、生に所属しているものである・・」p100(3)

・死の対立物である生殖
「死と完全に平衡を保っており、生への意志に対しては、個人の死にもかかわらず、あらゆる時期を通し、生を確保し、保証してくれるのである・・このことを表現するために、インド人は死の神シバにリンガムを属性としてささげた・・生を完全に肯定する立場に立ち、完全な心構えを備えた者は恐れず死に直面すること・・大多数の人々は、はっきりした心構えもなくこの立場に立ち、ずるずると生を肯定しているのである・・」p100(6)

人間が見直すべき真理の追求;生を肯定するには、生と対立させた位置にある生殖を見なければならないが、今日の人間たちは、はっきりした心構えもなく、ずるずると生を肯定してしまっている。

・生の意志が苦しみを抱えることを正当化し平衡を得てしまっている
「この生の肯定の鏡として、無限の時間、空間のなかに、とことんまで苦しみ、限りない生殖と死を重ねてゆく無数の個人をかかえた世界が存在している・・それでもそのことについては、どこからも非難の声があがっていない・・意志は身銭をきって大悲劇、大喜劇を上演し・・おのれの自らの芝居の観客におさまっているからだ・・」p100(11)

・意志は死と生殖を対立してこそはじめて生は意志を受ける
「世界とは・・このようなものである・・それは、世界が、その現象である意志が、このようなものであり、かつこのようなものであることを欲しているからである・・苦悩がなぜ正当化されるかというと、意志が、この現象についても、おのれを肯定しているからである・・この意志自体の肯定も、意志が苦しみを担っていることによって正当化され、平衡を得ている・・この点で既に永遠の正義について、われわれの目が開かれるのだ・・」p100(15)

*種族のための犠牲

・ラッコは子を守るために自分を犠牲にする
「ラッコは追われると、子供をつかんで水中に没する・・呼吸するために水面に再び浮き上がるときも、子供を自分のからだでおおい隠しているので、子供だけは救えても、自分は狩人の矢を受けてしまうことになる・・母親を招き寄せるためだけの目的で若い鯨を殺すこともある・・若い鯨がまだ生きている間は、母鯨はたとえ何本もモリをさされようとも、わが子のもとにはせ参じ、その場を離れようとはしない・・ニュージーランド近くにある三王島(スリーキングス)には海の像と呼ばれる巨大なアザラシが住んでいる・・彼らは島のまわりを規則正しい群れをつくって泳ぎまわっており、魚を食物にしているが、海中にはいまだに何であるかはわからない恐ろしい敵がいるためしばしばこれに襲われて重い傷を受ける・・そこで彼らがいっしょになって泳いでいるときも、独特の戦術を用いる・・雌は赤ん坊に哺乳するときには島に伏せるが、その期間は7、8週間にもおよぶ・・すべての雄は、しまいには雌のまわりに輪をつくり、雌が空腹に耐えかねて海にはいるのを防ごうとする・・それでも雌が海にはいろうと試みると、雄どもがかみついて妨害する・・こうして雌は、いずれも、互いに7、8週間何も食べることができず、全員やせほそってしまう・・それも、子供がじょうずに泳げるまでには海に行かせず・・押したり、かんだりする実物教育によって示される必要な戦術を子供に観察させるだけのためである・・」p101(5)

・動物たちの行動から観察できる生の意志
「ここでも、あらゆる意志の努力と同様、親の愛情が動物を利口にさせることが示されている・・野ガモ、ウグイスそれにほかの多くの鳥類は、狩人が巣に近づくと、狩人の足もとで鋭い叫び声をあげ、まるで羽が傷ついたかのようにあちこちをばたばた飛びかうが、これも狩人の注意を巣から離れさせるためである・・ヒバリは自分のからだを張って巣に向けられる犬の注意をそらそうとする・・これと同様に、雌のシカやノロシカは、狩人に子供を攻撃させないために、自分を追わせるべく誘い出す・・ツバメは若いひなを救い出すため、あるいはひなといっしょに焼け死ぬために、火事になった家のなかにも飛び込んでゆく・・デルフト市で大火事があったとき、コウノトリは、まだ飛ぶことのできないあどけないひなから離れまいとして巣のなかで焼け死んだ・・大雷鳥やヤマギシは卵をかかえたまま巣のなかで捕らえられる・・ヒタキの一種は、ものすごい勇気をだして巣を守り、ワシを相手にして戦うこともある・・アリをななめに切断したところ、前半分だけが依然としてサナギを安全な場所に運んでゆくありさまを見た人がいる・・胎児を腹から切り出された雌犬は、死にそうな状態にありながら、胎児のところまではってゆき、これがとりあげられてしまうと、はじめて激しくなきだしたという・・」p102(8)

*意志の不滅

・虫類から見る眠りと死との間には差異がない
「秋になって虫類の小さな世界を観察し、ある種の虫が長い硬直した冬眠をむさぼるために寝る場所を用意するありさまや、別種の虫がサナギとして冬を越し、春が来れば、すっかり更新された虫として目ざめるべくマユをつくっている様子・・大多数の虫類が死の腕のなかで安静の得られることを念頭におきながら卵から新しい幼虫がいつかは生まれ出るよう、注意深く、卵に適当な寝床をしつらえているありさまを見てみよう・・これらの光景こそ、そもそも眠りと死との間には根本的な差異がなく、眠りにしても死にしても、生存をさほど危うくするものではないことをわれわれに悟らせようとする偉大なる自然の不死の教えにほかならない・・」p103(6)

・虫の入念な春を迎える準備;死と新しい幼虫の生の同一視
「虫類は入念に虫房あるいは穴や巣を準備し、卵からそのなかに入れ、さらに来たるべき春に生まれ出ずる幼虫のための食糧をととのえ、自分は安らかに死んでゆく・・このような虫の入念さは、人間が夜分、翌朝着る衣類やあすの朝食の準備をしてからゆっくりと眠りにつく際に払っている細心の注意を全く同じである・・ちょうど眠りにつく人間が、翌朝m起床する人間と同一であるのと同じように、もし秋に死ぬ虫が、翌年の春、生まれ出てくる幼虫と同一でないならば、虫としてはなにもこんなに入念な仕事はしないであろう・・」p104(1)

・虫類の愛情の行為から人類、人間に置き換えてみる未来とは
「このような観察のあとで、われわれ自身とわれわれの種族、人類にもどり、視線を遠い未来に向け、何百万という人々が異様なからだつきをして、奇妙な風俗習慣を身につけているであろう将来の世代をありありと心に浮かべてみることにする・・その間に、『これらすべての者はいったいそこから来るのか?』『彼らは現在どこにいるのか?』『いまのところ隠してはいるけれども来たるべき世代をそして世界をはらんでいる無の豊かな子宮はどこにあるのか?』という質問を発してみたとしよう・・これらの質問に対しては、次のような真の回答が笑いながら与えられないだろうか・・」p104(8)

・人間に問えば、春なんか来るもんかと嘆き、慰めず強情をはる
「来たるべき世代の者がいまいるところは、ここだけが本来の場所であり、将来も本来の場所となる現在と、この現在が内蔵しているもの以外にあるはずはない・・そればかりではない・・ばかな質問をしたおまえ以外にはないのだ・・おまえは、おのれ自身の本質をすっかり誤解している・・おまえは木の葉が秋に枯れて地上に落ちようとしているとき、おのれの滅亡を嘆き、新春に木を包む新しい葉のことに思いをはせておのれを慰めようとはせず、『新しい葉なんかぼくではない。新しい葉なんか全く違った葉なんだ!』と嘆声をあげる様子とそっくりだ・・何とばかな木の葉だ!おまえはどこに行こうとしているのだ!ほかの葉はどこから来るのだ?おまえがその深淵を恐れている無はどこにあるのだ?おまえ自身の本質、生存への渇望を満たしている物がいったい何であるのかを認識せよ・・さらにこのことを、木の葉の発生や枯死には無関係に、葉のすべての世代を通じて常に同一である樹木の内的な、秘密な推進力のなかに認識せよ・・こんなこともいわれている・・」p104(14)

『樹木の葉とちょうど同じように、
 人間の世代がある。』

・人間より虫たちは自己と次世代を同種として同一視する
「いま私のまわりを飛びまわっているハエが夕方眠って、明朝再び飛びまわるのと、ハエが夕方死に、来年の春こそ、この二つの事柄を二つの根本から違ったものとする認識は、いついかなるときも妥当するわけではない相対的な認識、物自体ではない現象についての認識である・・ハエはあす再びここにいる・・来春にも再びここにいる・・ハエにとって、冬と夜を区別するものがあろうか?・・ブーアダッハの『生理学』第一巻、二七五ページにこんなことが書いてある・・」p105(10)

『午前十時までは薬剤のなかに滴虫類は一匹も見あたらなかったが、正午近くは液内には滴虫類がいっぱいうごめいていた。夕方全部死に、翌朝再び新しいのが発生していた。ニッチ氏はこのありさまを六日間にわたって観察した。』

*目のまばたき

・事物の本質は不滅である
「生成と滅亡は事物の本質をなすものではない・・事物の本質はこれらのものによって全く影響されることなく、したがって不滅なのだ・・生存しようと欲するものはすべて現実に持続的であり、終末がないという思想ほど抵抗することのできない力をもって迫ってくるものはない・・この考えによれば、いかなる時点をとっても蚊から象に至るすべての動物の種族は、すべて欠員なくそろって共存していることになる・・」p106(6)

・人間は一生は一度だと認識しているが動物はそんな意識なく生きている
「これらの動物は、既に何千回となく更新され、それでいて同一のままにとどまっている・・彼らは、自分たち以前に生存した仲間のことも知らないし、自分たちの死後生存するであろう仲間のこともわからない・・あらゆる時代を通じて生を続けるものは種族である・・そして種族は滅びることがない・・自分たちも種族と同一なのだという意識があればこそ、個体は元気に暮らしてゆけるのだ・・」p106(10)

・生の意志は無限の現在のなかに現象する
「それはこの無限の現在こそ種族の生の形式であり、そのためにけっして老化せず、常に若々しいままでいるからである・・無限の現在にとっては、死は、個人にとっての眠りに、目にとってのまばたきに等しい・・」p107(2)

・神々は人間になったときまばたきしないままいられる
「インドの神々は人間の姿として現われるときでも、まばたきをしないことによって、彼らが神々であることが認められる・・夜の訪れとともに世界は視界から消えてゆくけれども、そうだからといって一瞬間も世界が存在することをやめないのと同じように、人間や動物は死によって、一見消滅したようであっても、その真の本質は、なんら妨げられることなく存続する・・」p107(4)

・持続的理念である意志の客体化
「ここで、無限の速度によって振動する死と誕生の交替を考えてみれば、まるで滝にかかる虹のように、事物の本質の持続的理念である意志の客体化が、厳然として存在することがわかってくるはずだ・・これこそ時間のうえでの不死そのものである・・しかもこれによって、死と腐敗が何千年も累積したところで、何ものも失われない・・」p107(8)

・死が一個体、一世代で行なわれても物質は何変わらず持続的
「物質の原子、ましてや物質の内的本質はいささか消え去らない・・われわれはあらゆる瞬間に元気よく、『時間や死や腐敗にもかかわらず、われわれは全員共存しているのだ』と叫ぶことができる・・『私はもはや、こんなことを望まない』と、この不死の戯れに対し、いつかは心から呼びかけるような例外者もいるだろう・・だがこのことは、まだここで述べる段階ではない・・」p107(11)

女性は男性と違い動物的生存の根源をもち生きている。女性の有機体である構造にはホルモンという濃度の高い体液を全身に流動させ、生きる欲求を知覚とつなげあう。女性の感覚的なものは、それを持ちえていない男性にはまったくわからない。女性の感覚的なものは、不死であることと、人間が抱えてる死という次元をはるかに超えていて、女性は動物にように人間とはまた違う有機体という種族によって循環している。

 

*現在について

・意志が現象する唯一の形式として現在を認識する
「われわれは生を受ける前の過去や死後の未来を探究する必要はなく、むしろ意志が現象する唯一の形式として現在を認識しなければならない・・現在は意志からのがれることはなく、意志も確かに現在から離れ去りはしない・・生をあるがままの姿で満足し、生を全面的に肯定する者は、確固たる信念に基づいて生を無限であるとみ、死の恐怖を迷妄(めいもう)であるとして退ける・・」p108(1)

・死に対する恐怖の偽装と時間と空間の誤った考え
「『死は現在を消滅させる。現在の含まれない時間もある』といったつじつまのあわない恐怖は、ナンセンスであるとしてとりあわないのだ・・この迷妄は、時間についての誤った考えであるが、一方空間についての誤った考えもある・・だれでも自分がたまたま占めた地球上の地点を地球の上部にあり、それ以外の場所をすべて下部にあると空想する・・」p108(5)

・現在の形式は意志の客体化
「これと同様、だれしも現在のおのれの個性に関連させ、これとともにすべての現在は消滅する、また過去や未来も現在もなくしては存在しえないと考える・・だが地球上のいたるところが上部であるように、すべての生の形式も現在である・・さらに死がわれわれから現在を奪うからといって死を恐れるのは、幸いいまこそたまたまその上部にいるからよいものの、いつかは丸い地球からころげ落ちるのではないかと心配することよりも、賢明であるとはいえない・・意志の客体化は本質的に現在の形式である・・」p108(9)

・生に意志を与えれば、死をおのれの滅亡だと思うことはない
「これは延長のない点として、無限の時間をまっ二つにたち切り、涼しい夕刻のない、絶えず続く昼間のように、てこでも動かず、どっかと腰を据えている・・これはちょうど、一見夜のなかに沈むとはいえ、実は休みなく燃焼しつづけている太陽の真の姿に似ている・・死をおのれの滅亡だとして恐れることは、太陽が夕方になって、『悲しいことだ。私は永遠の夜中に沈まなくてはならぬ』と嘆声(たんせい)をあげると想像するのとなんら変わりはない(*)・・」p108(14)

(*)[原注]エッカーマンの『ゲーテとの対話』第二版、第一巻157ページで、ゲーテは次のように語った。『われらの精神は完全な、破壊されることのない性格の存在であり、永遠から永遠に向かって持続する。われらの精神は、地上に住むわれらのはかない目には、あたかも沈むように見えるけれども、実際にはけっして沈むことなく、絶えず光り輝く太陽に似ている。』
このたとえ話はゲーテが私からとり入れたのであって、私が彼の受売りをしたのではない・・疑うまでもなく、彼はこの1824年にかわした対話で、おそらく前述の私の記述を思い浮かべて、こうした言いまわしをしたのである・・それというのも、このたとえ話は、ここで用いたのと同じことばで、私の主著の初版401ページに載っており、さらに65節の末尾528ページでも再び同じ話が載っているからである・・私の主著の初版本は1818年12月、ゲーテのもとに送られたが、1819年3月、彼は私の妹を通じ、当時ナポリにいた私に、手紙で賛意を表わした・・その際彼は、この手紙に、彼が特に気に入った個所をページ数で示すメモを添えていた・・こうして、彼は私の主著を読んだわけである・・

・生に意志を与えても死を死のままにすると自殺しても救われない
「また逆のことも言える・生を心から欲求し、生を肯定しながらも、生の重荷にうちひしがれた者は、その苦しみをいみきらい、とりわけ、おのれにふりかかる過酷な運命ももはや耐え忍ぼうとはしない・・こういした人々は死による解放は期待しえず、自殺によって救われることもない・・ただ偽りの光のなかに漂う暗い、冷たい冥土が、まるで安全な港のように、誘いをかけてくれるだけである・・」p109(5)

・個人は死ぬが、太陽は休みなく動く
「大地は朝から夜へと回転し、個人は死んでゆく・・だが太陽は、休みなく、永遠の昼間として燃焼する・・生への意志にとって、生は確実そのものである・・たとえ、時間のなかに発生しては消滅する、理念の現象である個人が、はかない夢にたとえられようとも、生の形式は終末なき現在である・・こうした意味合いからしても、自殺は、無意味なばかげた行為だと思われる・・われわれの観察をさらに進めてゆけば、自殺はいっそう不利な光のなかに示されるであろう・・」p110(3)

 


本サイトでは、女性の心の疲れを取る、心の不安を解消する、心に癒しを与える、女性が生きていて幸福感と充足感を得られるために、西洋哲学の文献引用をし、作者の主観を外すために、読みにくい、比喩や隠喩、または文脈上のレトリックと言われる修辞学、これは雄弁術、弁証術、説得術ともいわれる記述上の技法を駆使しているため、女性は書物を読むのが難しくなってしまっているのです。それを、本サイトでは、断絶して、切り取られた文節で、タイトルをつけ、何が書かれているのかを見やすくしています。接続詞や感嘆詞、副詞を外し、主語と動詞に絞っているため、読みやすくなっています。

なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

その文献引用をパサージュ集と命名しています。
パサージュ集についての、コンセプトは次の記述をご覧ください。
女性の心を癒す落ちつかせるパサージュ|女性の不安を取る励ますための実践的哲学

パサージュ集は、本を読まなくなっている今世紀に重要な価値を女性であるあなたに与えることになるでしょう。
女性は、男性とは違ってホルモンの生成が年齢に関係なく豊富であり、今日まで信じられていた美意識は、性的な愛や恋に捉えれていましたが、実はそうではなく、知的欲求に性的欲求があることを本サイトが証明していっています。
女性は、知的欲求を磨くと、驚くほど、美しくなり、輝き、オーラが現れ、自己が確立して、生き方が変わっていきます。
その経験を、このパサージュ集を眺め見ることで、書物を一から読むよりも美的効果がありますので、ご期待くださいね。
パサージュ集に関して、お聞きになりたい疑問がありましたら、お気軽にご連絡ください。
お問い合わせ

本を購入することはネットから容易に行なうことができますが、その中に埋もれてる女性の知的欲求を磨くためのコンテンツ(文体)に出会えません。
そして、女性は多忙な生活を送っているのに、その中に本を探しに行き、そこから良いコンテンツに出会うまでの時間的余裕がまったくありません。
そのような事情から、現代小説のような連続性を内在させた形式に縛られたものや、すぐに結果が出るためには?のようなハウツー系に手を出してしまい、結局すぐにその本を読み終えても、知的欲求が刺激されることはほとんどありません。
本サイトはそのような事情をふまえて、コンテンツを中心に記載し、その文脈も哲学性がないものはまったく採用しておりません。
本サイトを運営する哲学性を持つ専門者が、吟味して、あなたの生きる時間を想像して選出しており、アナログで入力するため、未完成のままであります。
随時、更新させていきますので、ぜひご活用頂ければなと存じます。

本サイト女性の心の疲れと不安を取るためにパサージュ集

ショーペンハウアー存在と苦悩から女性の心の疲れを癒しに変える知恵をパサージュ

人類最古の哲学で女性の癒された心へ|女性の美学と神秘性を最古の哲学でパサージュ

女性の心のイライラとストレスを解消するために|神話が女性に語りかけることをパサージュ

女性が抱える心の根本からの悩みを受け入れる|ベンヤミンの敗者の歴史と女性の悩みのパサージュ


本サイトは、女性が自分の知り、それまで欲求は食欲、性欲、消費欲と思われていた基準を、知的欲求に変更する目的で作られています。
どうしてこのような女性専用でしかも、今の世の中ではほとんど行なわれていない哲学を内蔵させたのか?
この問い(テーゼ)の今の段階でわかっている地点は、女性には感性という自由な神経系を持つというところからです。
しかし、その感性を生かせる環境は、現状の世の中にはありません。
目の前のことは視野によって意味づけられ、女性が今日まで与えられた教育で固められた常識は、いつも女性の内面の自由さよりも、外部にいる他者に意識を奪われる、自分を見失うのです。

本サイトでできることは、
・女性はみずから作り上げた知的欲求のよる幸福感と充足感をかたちにする

・現実でうまくいかないことから見る目を変えるために、知的欲求を刺激して、自分に自信を持って生きる

・現実に疲れ、心の疲れが取れない、心に不安がたえずあるなどの、症状を取り出し、哲学的に記述(エクリチュールといいます)を読み、女性の生き方を見直す

などです。
定期的なメルマガを申し込むもいいですし、個別に知的欲求を刺激するセッションを申し込むのもいいですし、いまよりも少し知識を増やし、自己表現をエクリチュールで発信して、自分を強くするプランを申し込むのもいいです。
本サイトは、自己を見つけ出すために、思考に運動を与える実践ができる女性専用サイトであります。
ご興味のある方は、ぜひご連絡くださいね。
お問い合わせ

本サイトのご説明をいたします。
美意識には、刺激として入力が必要だと申し上げました。
そして、入力には自分で刺激を用意しては、予期しないことでないため、それでは入力系にはならないとお伝えしました。

それを容易に叶えるのが本サイトであります。
本サイトは、女性であるあなた自身が今よりも充実感や幸福感を高め、日々が満たされるよう、そのお手伝いをさせて頂くことがビジョンです。
そのための入力を反復して頂くことが充実感や幸福感、美意識による生き方の変更、日々感じておられる仕事や人間関係などの疲れ、心に限らず身体に感じるイライラ、倦怠感、憂鬱な気持ちにも対応できるようになっています。

入力を促すには、本サイトが無料でお読み頂ける実践的哲学で構成された記事をお読みください。
これは、本来の普遍的傾向でしたら、無料でお読み頂く記事を無料にはしないほどの内容と質と量が伴っており、この記事が有料となるのですが、入力は自由にやって頂く方が適切だと考え、生の哲学を現代に合った文体で読むことができます。
これが、始原的な入力となり、何度も読んで頂きますと、入力の神経系は解放され、そのうちあなたの内部運動が持つ制御が生まれ、発散から収束され、あなたの思考の資材となります。

そこからより個別的に自分磨き、または疲れがなかなか取れない、孤独感があって、一人で過ごすことは不安や焦りが出てくる感覚がある方は、一歩進んで個別的実践的哲学に導入することをお勧めいたします。

・スタンダードメンバー;月額864円
本記事への質問し放題、月二回にあなたに合った個別的哲学のエクリチュールを提供させて頂きます。

・プレミアムメンバー;月額2,700円

あなたという一人の人を哲学により解体し、実際の未来へのビジョンや理念を立たせるお手伝いをいたします。必要に応じて、パロール(話し言葉)が必要ならオプションで実践的哲学をトレーニングしている哲学者とコミュニケーションの時間を作ります。

  • この記事を書いた人

tak

疲れた女性を楽にするために交流を人を気にせずに行える空間を提供したいと思い考えました。どしどし発信をお願いします。

-女性の心を落ち着かせる言葉

Copyright© 女性の心の疲れと不安を取る励ます女性に合った哲学の実践 , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.