女性の心を落ち着かせる言葉

ショーペンハウアー存在と苦悩から女性の心の疲れを癒しに変える知恵をパサージュ

投稿日:2017年12月26日 更新日:

ショーペンハウアー『存在と苦悩』を見つめ、女性の心の疲れと心の不安を取っていくパサージュ

・存在と苦悩;ショーペンハウアーー白水Uブックス

*芸術について

人間美について

・人間の美しさとは
「人間の美しさは、意志の最も完全な客体化が、これが認識されうる最高の段階で示した客観的表現であり、目で見られる形式のなかにすっかり表現されている人間の理念一般である・・こう書くと、美の客観的側面ばかり強調されることになるけれども、これには常に主観的側面も伴っている・・なんといっても、最も美しい人間の顔かたちほど、これをながめるわれわれに、一瞬何ともいえないような快感を与え、われわれ自身を、否、われわれを苦しめるすべてのものを超越させてくれるものはない・・」p170(1)

・美しさは純粋認識が捉えている
「なぜこんなことが可能なのか・・それはただ次のような事情があるからにほかならない・・われわれは最も明白かつ純粋に意志を認識する立場に立ち・・最も容易かつ迅速に純粋認識の状態に身をおくことになる・・純粋認識の状態があって、純粋な、美的な喜びが存在するかぎり、われわれの人格も・・常に苦痛を伴うわれわれの欲求も消滅する・・」p170(7)

・ゲーテの美しさの言及

『人間の美しさをながめた者は、けっして不幸に見舞われない。その人は、おのれの自身と世界とが調和しあっていることを感ずるのだ。』

・人間の美しさを自然はどのように作ったのか
「意志が人間という最高の段階で個人のなかに客体化するにあたって、恵まれてたまわりの状況と、その力のおかげで、より低い段階にある意志のもろもろの現象が打ち出してきたすべての障害、抵抗を完全に克服したということによって説明されなくてはなるまい・・より低い段階におけるもろもろの現象とは、自然の諸力である・・」p171(3)

・意志は自然の諸力から獲得、奪取しなければならない
「意志はこの諸力から、すべてのものに属するべき素材を常に、まず獲得し、奪取しなくてはならない・・高級な段階に達した意志の現象は、常にその形式のなかに多様さを示している・・樹木はただ発芽する繊維の無数に反復された集合体にすぎない・・この結合は高級になるにしたがって、ますます巨大になってゆく・・人体は各種各様の部分を最高度に結合した組織であり、その各部分は、確かに全体の従属しているものの、そのいずれもが固有の生命をもっている・・」p171(7)

・人間の美しさとは身体と精神の全体と部分の調和
「このように、人体の各部分のすべてが、それぞれにふさわしい方式で全体に従属しつつ・・部分同士も互いにそれ相応の関係にあって、全体の表現のために、調和を保ちながら努力していること・・どの部分とも過大になることもなく、それかといって卑小になることもないこと、それらすべてのことこそ、結果的に美を・・完全に刻印された種の性格を生み出す、めったにはない諸条件なのである・・自然もこれと同じことである・・」p171(11)

・芸術は人間と同じ美しさを持つのだろうか?
「芸術は自然の模倣であるという考え方もある・・

もし芸術家が経験以前に美を先取りしていなかったとしたら、彼は何によって、すぐれた作品、模倣すべき作品を認識し、これを失敗した作品と区別して見出すことができるであろうか?
自然はすべての部分について完全な美しい人を生み出したであろうか?

こうなると、芸術家は多くの人間のなかには、それぞれどこか美しい部分があるから、これをうまくつきあわせて、それから美しい全体をつくったにちがいないと考える者も出てくる・・なんと倒錯した思慮のない考えであろう・・芸術家は、いったい何によってこれらの形式は美しく、そうでない形式は美しくないことを認めえたのであろう、という疑問が生じてくるからだ・・」p171(16)

・ドイツの古い画家の自然の模倣から美がわかること
「われわれは、古いドイツの画家たちが自然の模倣によって、どのような美に到達したかを知っている・・彼らの赤裸々な形象を観察するがよい・・純粋に後天的に、単なる経験によるだけでは、美の認識は不可能である・・美の認識は、もちろん先天的に意識された根拠律の諸形態とは全く違った方式ではあるけれども、少なくとも部分的には常に先天的である・・そもそも根拠律に従う認識は、認識一般の可能性を基礎づけ、現象の一般的な例外のないいかにを定めるものであって、その対象は現象の一般形式である・・」p172(8)

ドイツの自然を模倣した画家から美を観察する;後天的、経験だけでは美の認識は不可能。部分的には常に先天的である。根拠律からの美の認識は、現象の一般形式になる。

・認識から数学や純粋自然科学が発生する
「この種の認識からは数学や純粋自然科学が発生する・・これに反し、美の表現を可能とする他の先天的認識方式は、現象の形式の代わりに内容を、現象がいかにして生ずるかではなくして、現象が何であるのかを問題とする・・」p172(13)

・真の芸術家が表現する美とは
「われわれはだれでも、実物を見れば人間の美しさを認めるけれども、真の芸術家になると、美のとらえ方が非常にはっきりとしているため、自分で見なかったような人間美を表現し、現実の自然以上のものを創造することができる・・どうしてそんなことができるかというと、最高段階に達した意志の適切な客体化がここで発見され、評価され、いうなれば、われわれ自身となるからにほかならない・・ただこれによってだけ、われわれは実際に自然(これはわれわれの独特の本質を形成する意志そのものである)が表現しようとしてきたものを先取りすることができる・・」p172(16)

・真の芸術家のセンスの運動パターン
「真の芸術家にあっては、こうした先取がある程度の思慮深さを伴っているため、彼らは、個々の事物のなかからその理念を看取するにあたって、自然がいわばことば足らずに語ったことを理解し、自然がただどもりながら言ったことを純粋に表現する・・さらに芸術家は、自然が何千回も試みて失敗した形式の美を、堅い大理石の上に表現し、これを自然に対峙させながら、いわばこんなことを叫ぶのだ・・

『これがおまえの言いたかったことだ!』

『そうだ。そのとおりだ』

こんな答えが今度は芸術の識者から響いてくる・・」p173(5)

・天才的ギリシア人は人間の形姿を彫刻に表現してきた
「天才的なギリシア人は人間の形姿の原型を見出し、これを彫刻家たちの必須の規準として展示することができた・・こうして先取によってだけ、われわれはだれしも、自然が個々の事物について成功した美を、そのとおり認識することができるのだ・・この先取は理想である・・」p173(13)

・真の芸術家の半分は先天的に自然を認識している
「これが少なくとも半分は先天的に認識されたものであり、自然によって後天的に与えられたものを補強すべく、働くことによって芸術を実際にしあげるという意味合いからすれば、先取はまさに理念である・・」p173(16)

・芸術家、鑑賞家はともに客体化した意志と自然を同化する
「芸術家が先天的に美を先取りするいっぽう、鑑賞家が後天的にこれを承認することがどうして可能かというと、それは芸術家も、鑑賞家も、客体化された意志である自然そのものとなるからである・・」p174(2)

・エムペドクレスの美についてエクリチュール
「エムペドクレスがいっているように、同じものはただ同じものによってだけ認識されるからである・・自然はおのれ自身だけを理解できる・・自然はおのれ自身によってのみ解明される・・精神も、精神によってだけ聞きわけられる(*)・・」p174(4)

人間は美を自然から先取して認識する。美は理解と解明を自然を客体化したおのれ自身の意志で感じ取っている。

(*)最後のこの文章は、エルヴェシウスの『精神を感ずるものは精神以外にはない』ということばをドイツ語に翻訳したものであるが、初版ではこのことを指摘しておかなかった。ところがそのとき以来、人を愚鈍にするヘーゲルのインチキ哲学に影響され、時代はまさに末世いのありさまとなり、物の考え方もきわめて粗雑になってきたために、多くの人々は、私のこの文章までが<精神と自然>の対立を暗に指しているのではないかと誤解するようになった。そこで私もやむをえず、こうしたインチキ哲学の偽造に対し、はっきりと身を守らなくてはならなくなったしだいである。

崇高について

・見渡すかぎり水平線のきわめて寂しい地方に身をおいてみる
「空には雲一つなく、木々も植物も、風一つない大気のなかに生えている、動物もいない、人間もいない、水の流れもない、深いしじまだ・・このような土地はまるできびしさと静観を、またすべての欲望とそれにつきまとう窮乏(きゅうぼう)から身を解き放すことを呼びかけているようだ・・」p175(1)

・何もないところには静観に入る以外ない精神
「このことは、ただ寂しいばかりの静まりかえったこうした土地に崇高の趣きを与えている・・こんな土地は、絶えず努力しつつ目標に到達しようと励んでいる意志に対し、望ましいもの、望ましくないものを問わずなんらの対象をも与えず、ここではただ純粋に静観する状態にはいる以外手がないからである・・」p175(4)

・寂しいばかりの土地では意志が無活動状態から空虚や退屈の苦痛を知る
「こんな土地で瞑想にふけることができない者は、意志が無活動状態にあることから生ずる空虚や退屈の苦痛に、恥ずかしいと、おのれをさげすむ気持ちをいだきながらも身をゆだねなくてはなるまい・・こんな土地は、こうした事情からしても、われわれ自身の知的な価値の尺度を与えてくれる・・」p175(7)

・知的な価値の尺度とは、孤独に耐えられるか、愛していけるのか
「知的な価値の度合いを知るには、一般にわれわれがどれほど孤独に耐えることができるか、あるいは孤独を愛することができるかということが、よい尺度になる・・このような土地は低い標準にはあるものの、崇高の好例をも与えてくれる・・それはこの土地に足を踏み入れた人は、静かに、いともつつましやかに純粋な認識の状態におかれる半面、これとは全く対照的な気分・・いつも欲望から欲望へとかりたてる意志のまにまに、あわれなありさまとなっていたことを想起する気分にもとらわれるからである・・これこそ、北アメリカ内陸部の限りない大平原をながめたとき、痛感する崇高と同じものである・・」p175(9)

・ただ裸の岩だけを残す;気分は悲劇的になる
「今度は、こうした土地からさらに植物すらなくし、ただ裸の岩だけがあるだけということにしよう・・そうなると、われわれの生存に必要な有機体の完全な欠如によって、意志もたちまち不安に襲われる・・荒涼は恐ろしい性格を持ち、われわれの気分はまるで悲劇的となる・・われわれあは純粋認識の高みに達するが、それと同時に、意志の利害から完全に解き放される・・われわれが純粋認識の状態にしっかりと身をおいているうちに、崇高の感覚がはっきりと生じてくる・・」p176(4)

・さらに高度な崇高
「いっそう高度な崇高は、次のような土地に身をおくことによって体得される・・自然は、嵐のように活動している・・あたりはなかば暗闇に閉ざされ、天空には恐ろしい雨雲が通り過ぎる・・あまりにも曲折が激しいため眺望を妨げる険しい傾斜の岩は、きわめて巨大であり、その上には一本一草すら生えていない・・騒々しい音をたて、泡だちながら流れる川もある・・完全に荒涼とした風景である・・峡谷をよぎる風は嘆き声をあげている・・われわれが手枷足枷をはめられていること、われわれに敵対する自然と戦ってゆかなくてはならないこと、それにわれわれはこの戦いに意志をくじかれてしまうことが、いまやあまりにも明白にまにあたりに繰り広げられる・・」p176(8)

・崇高の感情の基礎;落ち着き、惑わず、理念を把握できる精神運動
「おのれの苦しみに心をすっかり占めることなく、美学的に物を鑑賞しようという立場に立つことができるかぎり、たとえこの風土のなかで自然の闘争や意志がくじかれたありさまを、はっきり見せつけられたとしても、認識の純粋な主体は、すべてをはっきりと見通すことができる・・この認識の主体は、現に意志にとっては、恐怖の的であるもろもろの対象に接したとしても、けっしてこれにひきずりこまれることなく、落ち着き、惑わず、理念を把握することができる・・この対照のなかにこそ崇高の感情の基礎がある・・」p176(15)

物事を見る見方を美学的に鑑賞しようとする実践;自然の闘争や意志がくじかれた姿が見えても、人は崇高な感情のままいられる。

・自然の恐れ、客体がなくなると崇高な感情は停止する
「自然の怒り狂うもろもろの要素の戦いがさらに大がかりに繰り広げられるのを見るとき・・荒涼たる土地のなかを通過する◯流があまりにもすさまじい音をたてるため、自分の声を聞くこともできなくなるとき・・嵐に襲われて荒れ狂う大海原の岸辺に立つとき、われわれが受ける印象はなおいっそう強烈の度を加える・・嵐のなかの海にはどのような光景が展開するだろうか・・まるで家のように高い波が上下しながら、険しい岸辺の崖に激しくぶつかると、泡は天空高く舞い上がる・・嵐はほえ、海はうなっても、黒い雲のなか電光と雷鳴は、これを圧して光り、かつとどろく・・このありさまを平然とながめる人は、自分が二重の意識を備えていることがはっきりとわかってくる・・この人はまず、おのれが自然のあの狂暴な力に少しでも襲われると、すぐにうちくだかれ、強力な自然を相手どってはなすすべもなく、偶然に身をまかせるほかはない・・意志のはかない現象、かよわい人間であることを、巨大なもろもろの力に対しては、無に等しい微小な存在であることを痛感する・・」p177(6)

・崇高な感情とは理念を悠然と把握する者自体となる
「この人は自分が客観の条件であり、このすべての世界の担い手である永遠に平静な認識の主体であることを感ずる・・この立場に立てば、荒れ狂う自然の戦いも、単に彼の表象にすぎない・・彼はあらゆる欲望、あらゆる欠乏から全く別物として独立し、理念を悠然と把握する者自体となる・・これが崇高の完全な印象である・・これを感じとる方法は、人間とは比較にならないほど強力であり・・人間に滅亡の脅威を与える力をながめることである・・」p177(17)

芸術の鑑賞

・欲望は満たされるとそこで尽きる
「すべての欲望は、欠乏、不足それに苦悩から生ずる・・充足されると欲望は終わる・・一つの欲求が満たされたとしても、少なくとも十指にのぼるほかの欲求は満たされないままである・・」p178(7)

・要求は長く、充足は短い
「需要は長期にわたり、要求はかぎりなく続く・・その半面充足は短く・・ささやかなものである・・じゅうぶんな満足自体はうわべだけのことである・・欲望は満足させられると同時に、新しい欲望に場所を譲る・・」p178(9)

・終わった欲望は既知な残骸となる
「古い欲望は既にわかりきった誤りであり、新しい欲望はまだ認識されていない誤りである・・確かに欲望の対象が得られたからといって、持続的な、けっして逃げ出さない満足は得られない・・こんなものは常に、乞食の今日の生命を保つにしても、明日までその苦痛を延期させるため、乞食に投げ与えられる施し物のようなものにすぎぬ・・」p178(11)

・私たちが欲望の主体であれば幸福感は得られない
「われわれの意識がわれわれの意志によって満たされているかぎり、われわれが常に期待しながら、常に恐れている欲望の衝動に身をゆだねてかぎり・・われわれが欲望の主体であるかぎり、われわれはけっして持続的な幸福や、落ち着きは得られない・・」p179(2)

・欲望の主体は、イクシオンの車輪と同じ
「われわれが、突き進もうと、逃げようと、不幸を恐れようと、快楽を追求しようと、本質的には同じこと・・どのような形態をとろうとも常に欲求する意志への配慮が意識を満たし、絶えず先へ先へと意識を動かしてゆき、止まることはない・・真の幸福は不可能・・欲望の主体は、(*)絶えず回転するイクシオンの車輪に結びつけられ、ダナオスの娘たちのように篩(ふるい)で水を汲み・・タンタロスのように永遠に喉がからにしている・・」p179(5)

(*)テッサリア王イクシオンはゼウスに罰せられて永久に止まることのない車に結びつけられた。ダナオスの娘やタンタロスの物語も無限の苦しみを示すギリシャ神話)

・真の幸福は、求めながら逃げてしまっていた心の平穏がおのずと登場のとき
「外的な機会や内的な気分の変化で、われわれが突然欲望の無限の流れから離脱し、認識が意志に奴隷のように仕えることをやめ・・われわれの関心がもはや欲望の動機に向けられることなく、事物を意志との関連においてではなく、自由自在に把握するならば・・われわれが事物を動機としてではなく、単なる表象としてとらえ、損得や打算にとらわれず、我欲を捨てて、事物を純粋に観察するならば、前述のような欲望にとらわれたときには、常に求めながらも、常に逃げてしまっていた平穏がはじめておのずと登場し、これでこそ幸福だという気持ちになる・・」p179(11)

・真の幸福は、エピクロスが概念にした最高善、苦痛なき状態
「これがかのエピクロスが最高善、神々の境地として賞揚した苦痛なき状態・・そうした瞬間には、われわれは、あの恥ずべき意志の衝動から解き放され、意志によって課されたいわば収容所の強制労働が休みとなる安息日を祝い、イクシオンの車輪は停止するからだ・・」p179(16)

・真の幸福の境地は理念の認識
「このような境地に達することは、理念の認識にとって必要なこと・・このような境地に達することは、とりもなさず純粋な瞑想、直観のなかへの没入、対象そのものとなることであり、人それぞれの個性をすべて忘却し、根拠律に従い、ただ事物の関係だけを理解する認識方式を脱却することである・・それと同時に、かつ不可分に行なわれることは、まのあたりに見た個々の事物を、これらの事物が属する種の理念にまで高め・・認識する個々の人を、意志ぬきの認識の純粋な主観に向上させることである・・このような二つのことさえ備わっていれば・・時間の流れやすべての他のもろもろの関係のなかで煩わされることはない・・この境地に達すれば、太陽が沈む様子を牢獄のなかでながめようと、宮殿のなかで見守ろうと、どうでもよいことになる・・」p180(4)

・オランダの画家は客観性と精神的平静さを静かな生活を描き表現
「認識が意志より上位にあるという内的な気分にあれば、どんな環境にあっても、この境地に達することができる・・こうした状態をすぐれたオランダ画家たちが示してくれる・・彼らは、純粋、客観的な直観を全く取るに足らない対象にまで及ぼし、彼らがいかに客観性と精神的平静さを備えているかを、静かな生活を描くことによって表現した・・美的な感覚を備えた鑑賞者なら、彼らの作品を感動せずしてながめることはできないだろう・・鑑賞者は、とりとめもないつまらない事物をかくも客観的にながめ、あのようにきめこまかく観察したうえ、心のなかに描かれた像を慎重に再現するために、必要な、落ち着いた、静かな・・意志から自由なオランダ画家たちの心の状態を思い浮かべるからである・・オランダ画家たちの絵は鑑賞者に、画家の境地に関心をいだくことを求めるいっぽう、鑑賞者の感動は、その人がおかれているおのれ自身の不安定な、激しい欲望によって曇らされた心の状態と、画家たちの境地との対比によって、ますます高まっていく・・オランダ画家たちと同じ精神に貫かれた風景画家たち、特にロイスダールは、きわめてつまらない、自然の事物を描き、これによって、オランダ画家たちが生み出したのと同じような効果を、さらに楽しげに表現した・・」p180(13)

*芸術と現実

・絵を見て感違いするのは、内面的重要性は外面的重要性とは全く違ってること
「オランダ派のすぐれた画家たちについて、単に彼らの技巧の能力だけを評価するにとどまり、一方彼らの描いた対象がほとんど日常生活を素材にしていたことを理由に、彼らを軽くみるようなことがあったとしたら、それははなはだしい誤りである・・普通はオランダ派の画家たちとはち違って、世界史的できごとや聖書の物語を素材としたものだけが重要であるとされている・・その際まず熟慮しなくてはならないことは、ある行為の内面的重要性は外面的重要性とは全く違っていること、それに両者はしばしば、完全に分離したまま別々に進んでゆくということである・・」

女性のための実践的哲学は内面的重要性と外面的重要性との垣根に境界線をひき、内面的重要性に磨きをかけ、女性が潜在的にもっている美的感覚を磨いていく。

・外面的重要性と内面的重要性の定義
「外面的重要性とは、その行為が現実の世界のなかで・・この世界に対し、どんな結果を生むかという関係によって、決まるのであり、したがって根拠律に従っている・・一方内面的重要性とは、その行為によって解明された人間の理念についての深い洞察によって、決まるものである・・」p182(4)

・内面的重要性は芸術のなかで見つけ出すことができる
「おのれの行為のもつ重要性をはっきりと決定的に表現しようとする人々がいる・・これらの人々は、目的とするところに即して形成された環境のなかで、自分たちの特性を発揮する・・このことによって、人間の理念のなかで、めったには出現することのない側面が、はじめて明らかにされる・・芸術のなかで意味あるのは、ただこの内面的重要性である・・」p182(8)

・外面的重要性は歴史のなかで通用する
「両者は互いに完全に独立したまま存在しており、たまたまいっしょに現われることもありうるけれども、どちらも全然別物として姿を現わす・・歴史にとって、これ以上の意義はないというほどの行為でも、内面的重要性という点からみると、きわめて日常的通俗的なものにすぎない場合もある・・これとは逆に日常生活の一場面でも、そのなかで、個々の人間の持つ個性や、人間の行動や欲望が、隅から隅まで、その深奥の動きまでが、はっきり明るい光のなかで現わされているような場合には、きわめて重要な内面的意義を持っている・・」p182(12)

*芸術の慰め

・芸術的天才の特権は生の苦しみを償ってくれる
「すべての美と芸術が与えてくれる慰めを享受することや、生の苦しみを忘却させてくれる芸術家の熱情、こういしたものは、ほかの者には恵まれない天才の特権である・・天才は意識がはっきりしているため、それだけ異質な人々のなかにあって苦しみは大きく、寒々とした孤独に悩まされる・・天才の特権はこの苦しみを償ってくれる・・それというのは・・生そのものは意志であり、生存自体は絶えざる苦悩であり、あるときは悲惨そのもの、あるときは恐怖に満たされている半面、同じ生でも表象としてだけとらえた場合は・・純粋に鑑賞されたとき、あるいは芸術を通して再現されるときは、苦痛に煩わされることなく、意義深い演劇を繰り広げてくれるという事情があるからにほかならない・・」p183(2)

・芸術家を魅了するのは、意志の客体化という芝居を見ること
「このように世界を純粋に認識する側面を備え、かつそれをなんらかの芸術のなかに再現することは芸術家の本筋である・・芸術家を魅了するのは、意志の客体化という芝居を見ることである・・芸術家はこの芝居のかたわらにとどまり、飽くことなくこれをながめ、そして表現を通じてこれを繰り返すばかりではない・・ときにはこの芝居を上演する費用を引き受けることもあろう・・芸術家自身が客体化し、常に苦悩のなかに停滞する意志そのものとなるだろう・・」p183(10)

女性の魅了される美学とは;女性が自己内面的感情や感覚、感性豊かさに主観化から客体化にし、それを女性に与えられた生のなかで演じることそのものの提案である。

・芸術家の目的は、世界の本質を純粋に捉えること
「芸術家にとっては、世界の本質を純粋に、真実に、しかも深く認識することだけが目的そのものなのである・・芸術家は、その目的のかたわらにとどまることになる・・そのために、芸術家は、後に示すような諦念に達した聖者の境地である意志の鎮静には至らない・・芸術家はけっして解脱することなく、ただ一瞬間生から解き放されるだけである・・それも、生から脱却する道を見出したからではなく、生のなかにもときたま慰めを見出すことができるということである・・そうはいっても、慰めを生から得て、しだいに力を得た芸術家が、ついにたわむれるように仕事をすることに飽き、きびしさをとらえることもある・・こうした過程の象徴として、ラファエロの聖ツェチリエをながめることができる・・」p184(3)

 

 

 

 


本サイトでは、女性の心の疲れを取る、心の不安を解消する、心に癒しを与える、女性が生きていて幸福感と充足感を得られるために、西洋哲学の文献引用をし、作者の主観を外すために、読みにくい、比喩や隠喩、または文脈上のレトリックと言われる修辞学、これは雄弁術、弁証術、説得術ともいわれる記述上の技法を駆使しているため、女性は書物を読むのが難しくなってしまっているのです。それを、本サイトでは、断絶して、切り取られた文節で、タイトルをつけ、何が書かれているのかを見やすくしています。接続詞や感嘆詞、副詞を外し、主語と動詞に絞っているため、読みやすくなっています。

なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

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