女性の心を落ち着かせる言葉

女性の心に抱えた悩みを見つめる|ブライアンマギー哲学で女性の心の悩みをパサージュ

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女性の心の悩みを見つめる。ブライアンマギーの哲学で心の悩みの本質へ

・哲学人(てつがくびと)下;ブライアン・マギー著ーNHK出版

ブライアン・マギー;哲学の限界

・カントの残した疑問に答える哲学を求めて
「ポパーの本を書き終え、テレビ・シリーズ『サムシング・トゥ・セイ』も終了・・いささか行きづまりを感じた・・『死に直面して』を執筆することで中年の危機の峠は越えた・・人間の条件についての理解も自分なりにとことん深めることはできた・・存在をめぐる悩みは解消されず、どうすればそれについてさらに洞察が得られるのかわからなかった・・どこに向かえばいいのか、何をすればいいのか、まったく検討がつかない・・この状況そのものが私には耐えがたいまでにいらただしく思えた・・すでに40代を迎えていたことが、こうした気持ちの一因となったのだと思う・・自分はもう青年ではない・・いまや中年に突入しており、いずれ老年が訪れる・・この年になってもまだ、私が望み、求め、探している人生に関する理解といったことは何も成し遂げていない・・出版した数冊の本は好評だったし、ラジオやテレビへの出演を楽しみながら生計を立ててもいた・・その実、虚しさと不満を感じていた・・自分がどこにいこうとしているのかわからなかった・・報酬が魅力的とはいえ、放送人として生きることを望んでいたわけでもない・・全体の状況を振り返ると、私はすべての道をいっぺんに断たれたような気がした・・」p182(1)

・カント;知りうることの限界の哲学
「哲学においても私はいくつもの壁にぶちあたったようだった・・カントは知りうることの限界がいかなるものかを理解させてくれたが、その理解がいまや私の考え方全体に組み込まれていた・・カントには誤りがたくさんあって、なかには重大な欠点もあったが、私には、経験の基本的な問題に関する彼の分析の修正版なら正しいはずだと思われた・・カントの解決案の多くに納得できないということは、彼が提示した問題が依然として私の目に前にあることを意味した・・知りうるものと知りえないもの、意味のあるものとないものについてのカントの定式化が間違っているのであれば、間違っている理由を知る必要がある・・トルストイの『純粋哲学の務めはカントの疑問に答えることだ』という一節の出くわしたとき、私はまさにその通りだと思った・・私はいまだにカントの疑問を満足のいくまで論じた哲学者を読んだことがなかったし、私自身に実行可能な答えを生み出せる力量があるなどとは思ったこともなかった・・カント以降、哲学に価値のある貢献をした哲学者は何人もいるが、彼らの仕事はカントが画定した意味(知りうるもの)の限界内におさまるものだった・・その境界線を押し戻した者はひとりもいなかった・・知りうることと知りえないこととの境界は依然として、いくつかの条件つきながらカントまで残したままの位置にある(そして、カントに匹敵する天分を備えた哲学者がつぎに現れるまでそれは変わらない)ように思われた・・私も自分で望めば、知りうることの領域で努力することはできたし、その場合はきっと興味深い仕事をしただろうが、結局のところ最も重要な問題(知りうるものと知りえないものとの境界画定)に関してなんの貢献もしなかっただろう・・」p183(4)

カントの哲学的思惟;知りうるものと知りえないものとの境界画定。

・カントの純粋哲学をポパーは説く必要がないと考える
「私はこれに取り組むようポパーに説得を試みたが、彼はその気にはならなかった・・何も、基本的なカントの疑問の重要性をポパーに説く必要があったわけではない・・彼はそうした疑問への答えとして何を言えばいいのかわからなかった・・言うべきことがあって、しかもそれがどんなものかわかっていなければ書かない主義を彼は厳密に貫いていた・・ポパーとしては、自分が解決案をもたらすことのできる問題がほかにあると意識しないではいられなかったし、何かを成し遂げられるという希望とともにそちらに取り組むほうが価値があるように思われたのである・・私見では、ポパーに比肩する能力の持ち主はいなかった・・私が知っている、あるいは評判を耳にしたことのある優秀な哲学者たちのなかに、ポパーのようなカントの疑問を受け入れる者はほかに誰ひとりもいなかった・・」p184(2)

・マギーの伝統的哲学の見直しとアーレントの『人間の条件』
「自分が訓練を受けた伝統を見直し、それを『現代イギリス哲学』として出版した私は、その伝統が破綻しているという確信を強めていた・・アメリカの哲学は、イギリスの哲学に比べて本質的であり、豊かで多彩でもあったが、きわめて優秀なアメリカの哲学者たちでさえ、分析的アプローチの範囲内にとどまっているように見受けられたし、私には彼らの取り組んでいる問題をその手法だけで解決するのは無理だとわかっていた・・ヨーロッパ大陸の哲学は、私の知るかぎり、中身がやわで自分に甘く、実を言うと多少の分析的な自己鍛錬がぜひとも必要なぐらいだった・・大陸哲学の顕著だったのは『人間の条件』をめぐる熱狂ぶりだが、この条件は、現代政治、パリの最新芸術事情、精神分析といった、限定された滑稽なほどの流行語に置き換えて解釈されていた・・ヨーロッパ哲学の大半は、マルクスとフロイトをめぐる閑談にすぎなかった・・現存する大陸哲学のなかでも最も有名だったジャン=ポール・サルトルの作品は、確かに巧妙で魅力的に思われたが、本質的にはジャーナリストであったし、その根底にある仮定の多くは不快なものだった・・たとえば、彼は共産党の一党独裁を、そして人民に対するテロの使用をあくまでも擁護しつづけている・・」p184(11)

・カント哲学の省察は経験論や分析哲学から
「求められるのは、経験論や分析哲学の伝統の訓練を応用し、その訓練のみに限定されることなくカントの疑問に取り組む哲学者なのかもしれない・・私はいつしかそう考えるようになり、そんな哲学者が、芸術に、彼の考察の中心に近い位置を与えるのを見たいと思った・・私にとって芸術は、人生のなかで人間についで重要なものだったため、哲学者たちがほとんど関心を寄せないのは解せなかった・・セックスについてもしかり・・人はみなセックスによって生まれてくるのが明白である以上、どうして哲学者たちがそれにほとんど考察を加えずにいられるのか私には理解できなかった・・これはもちろん、その形而上学に、という意味である・・形而上学上このうえない意味をもつことが目の前にあるというのに、哲学者たちはそれについて言うべき言葉をもたなかった・・哲学者として考察すらしなかった彼らは、考察してはどうかと勧められても当惑したことだろう・・そのような考えは、当時から分析哲学者の公の姿勢から何光年も彼方にあった・・カント自身は、セックスについて何も語っていない・・芸術についてはひとつだけ重要なことを述べており、私にはそれが間違いなく有用であるように思われた・・それは、ある物体を美しいと思うのは、その物体の特性によるのではなく、鑑賞の仕方の特性によるのだというものである・・」p185(4)

カントが説く美;ある物体を美しいと思うのは、その物体の特性によるのではなく、鑑賞の仕方の特性による。

・カントの事物から説く哲学にテーゼを与える
「カントの設定した境界を広げる者は、こうしたことを行なわなければならなかった・・もしも私がこれらをもっと独創的に表現できたとしたら、私自身がその人物になっていただろう・・それは無理だと承知していたが、私には大きな、(哲学にとって)新しい問題が見えていたし、その問題に立ち向かう者を求めていた・・それにもちろん、現象は物自体のよって引き起こされると説明する際のカントの悪名高い自家撞着を修復してもらいたくもあった・・私の心境はさながら、ヒュームとカントのあいだに登場し、ヒュームの哲学によって提示された難問を無視できないと感じながらも、自分ではカントのような解決策を提示できないそれであった・・つぎのカントを、さまざまな問題の形態を変え、この学問全体を異なる基盤の上に築けるこど偉大なつぎの哲学者を待ち望んでいた・・私は、偉大な哲学が終わったなどと思ったことは一瞬なりともなかったが、一部の人たちはそう言っていて、偉大な音楽が終わったと語る人もいた(これについても私はそう思ったことはない)。いくつもの定式化された基本的問題が未解決のまま残っているのに、真摯(しんし)な哲学が終わることなどありえない・・アリストテレスとカントとのあいだには二千年が経過していた・・同等の能力の持ち主がつぎに現れるまで、さらに二千年かかるかもしれない・・そうこうしているうちに私の人生は先へ進んでいく・・私は今を生きなくてはならないのだ・・事実上、哲学は終わったかもしれないものとして生きるしかないのかもしれない・・私にとっては終わったも同然だったから・・いくら哲学的に考えようと努めても、どれだけ哲学を読んでも、こう思うのにまかせない状態がつづいていくと知るだけなのかもしれない・・二級の大家たちからも無限に学び続けることができるのは言うまでもなかったし、いずれにしても私はそうするだけの興味を哲学にもっていたが、真に偉大な巨匠たちはすべて読破したため、いや、そう思っていたため、ほかの哲学者に私の世界観を変えてくれることを望みはしなかった・・」p185(16)

哲学以外の経験ー芸術と宗教を探求する

・マギー;物事のあり方の理解を哲学以外に求める
「私は必然的に、物事のあり方の理解を前進させる可能性のある道を哲学の外に探しはじめた・・音楽と演劇は、私の人生を通じて常に哲学よりも重要な役割を果たしていたので、最初のふたつに目を向けるのは当然だったのかもしれない・・私が得た数多くの経験のなかには、経験界の外にあるものが暗示されていた・・それ自身は時間を超えているが、その内部で時間が設定されるものの暗示があった・・それは『疑似』などの経験ではなく、経験そのものであった・・何かほかのものがるという経験・・この世界と関連があるにしろ、時間を超越している何か普遍的なものがあるという経験・・音楽と演劇は時間のなかに存在しなければならない(ほかに存在のしようがない)が、偉大な作品の名演は『永遠の相のもとに』展開される・・いったんそうした演奏・演技に引き込まれると、私はすっかり自己の外に出て、われを忘れた・・そのとき作品と私はどちらも空間と時間から独立している・・いまここで行なわれると一度かぎりの演奏・演技のなかに存在する唯一にして特定の具体的なものとの関係を具現化している・・それにともなって・・あるがままの存在とはこういうものなのだろう、これがあらゆるものの本質だと、という直観が訪れる・・それは直接の、見違えようのない知識で、味覚にも似ていた・・こうした経験が得られるのは、たいてい芸術からだったが、かならずしもそうとはかぎらない・・子どものころ、野原にいる馬の群れを眺めていて、その群れが別の時間のなかを動いているのを見たことがある・・自然に囲まれていると、ときおりこれと同じような経験をする・・最高に偉大な芸術、たとえばシェークスピア、ワーグナー、モーツァルトの芸術は、その経験が永遠に彩る次元を与えてくれる・・」p187(18)

・芸術とは非概念的。哲学とどう関われるのか
「芸術を通せば、知りうることの限界を探って押し戻し、この世界に関する理解を広げていくと同時に、その世界の外に何かがあるかをかいま見ることができるのだろうか・・問題は、私がすでにそれをしているということにあった・・このような生き方にそれほど情熱的にのめりこんでいたため、私はすでに長年にわたって音楽と演劇を吸収できる限界までむさぼっていた・・きっと私以上に音楽と演劇を愛せた者はいなかっただろうし、私は自分の許容力に余地のあるかぎり、音楽と演劇から多くを学び取っていた・・もはやこれ以上どうすれば芸術が従来より際立って多くのものを私にもたらしてくれるのか、わからなかった・・公演通いに加えて、演劇と音楽の研究に取りかかってもよかったし、その研究を私の人生に哲学の研究が占めてきたのと同様の場所に位置づけてもよかっただろう・・その性質から言って、研究は芸術的でも審美的でもない・・概念的で知的な活動になる・・私が経験した芸術作品について興味深い知識を増やしてくれるのは疑いがないが、その経験自体にどんな貢献をしてくれるのかわからなかった・・非概念的であることが芸術というものには欠かせないからである(ただし、表象記号を概念とみなせるならば話は別だが)・・同様に、恋愛という経験についての偉大な文学は数あるが、いくら名作だろうと、恋愛をしている者がそうした本を読むことで恋愛体験を深められるとは考えられない・・その種の効果を期待すれば、恋愛の、いや、恋愛と読書の本質をまったく誤解することになるだろう・・偉大な文学を読むのは、それ自体、非常に価値のある経験で、得るところは多いが、恋愛相手に対する愛を深めることはそこに含まれていない・・文学によって育まれる愛には、周知のとおり、どこかまがいものめいたところがある・・恋愛体験のさなかにある者が、同じ境遇にある人たちについて読みたがり、読んだ内容に敏感に反応するのはよくわかるが、そこで得られる本当の収穫と経験は文学的なもの、おそらく認識的なものであって、恋愛ではない・・この重要なアナロジーはあらゆる芸術にあてはまる・・本物の芸術の創造と、それに対する反応は、概念で考える知性の活動ではなく、知的理解力が増せば著しく促進されるというものでもない・・」p187(16)

・芸術の研究が哲学に発展することにならない真実
「私は音楽を愛するがゆえに、すでに音楽に関する本を大量に読みふけっていた・・ワーグナーについて本を書き、その必要上、関連文献を読み漁りもした・・その方法で得られる最大限のことではないにせよ、私なりに多くのことを吸収していた・・そうした研究に親しみ、そこで学んだ経験から、次のような経験に達した・・こうした研究はいろいろな点で役に立つと同時に興味深くもあるが、哲学の研究を引き継ぐことはおろか代替することもできない・・残る方向として私に思いつくのはただひとつ、宗教だけだった・・通常、宗教的信仰に対する私のこれまでの姿勢は、無関心から不賛成までのどこかに位置する傾向があった・・無関心というのは、宗教的な主張を真に受ける理由が見つからなかったことによるところが大きい・・その内容自体、注目に値しなかったし、そうした主張が解決策のように思われたとしても、そもそものもととなる問題に私は直面したことがなかった・・見直すべきなのかもしれない・・賛成しなかったのは、宗教的信仰が言い逃れのように思えてならなかったからである・・人は、未知のものに対峙し、それが引き起こす不安をどうにか克服して、自分が無知であるという恐ろしい事実を受け入れ、そんな状況にあるにもかかわらず多少なりとも誠実に生きていこうとしなければならない・・信仰は私たちがそうした状況にないかのように疑似知識をもっているうえ、そこから慰めが得られることまで知っていると主張したのである・・こうした考えは、私の生活信条である、つぎのようなごく基本的な価値基準を侮辱するものだった・・真実とはいったいどういうものなのかを知るために、形而上学的なレベルでできることはすべてやるという決意・・探究とそれによる発見に関して自分に正直であること・・知らないという恐怖と不満をやわらげる一時しのぎに誘惑され探究から離れることは、断固として拒否すること・・こういう価値基準を宗教は侮辱した・・私は宗教を逃避とみなした・・自分は勇気があると考えていたわけではないが(それどころか、形而上学的な恐怖のあまり心の病になりかけたし、自殺もしかねなかった)、宗教を臆病なものと考えたのは確かである・・宗教に逆戻りする人たちは真実の探究をあきらめていた・・きっと気は楽になったどろうが、私に言わせれば、彼らは宗教のおかげで真実という問題について語る必要がなくなったのだった・・」p189(13)

マギーの宗教的信仰の断絶の構造

*信仰は真実を探究する哲学を否定する

・真実とはいったいどういうものなのかを知るために、形而上学的なレベルでできることはすべてやるという決意

・探究とそれによる発見に関して自分に正直であること

・知らないという恐怖と不満をやわらげる一時しのぎに誘惑され探究から離れることは、断固として拒否すること

宗教のおかげで、信者は真実という問題について語る必要がなくなってしまったのである。これが現代においても、資本主義システムに内在したまま継承され、人間は仕事をしてお金を得るというところに信仰システムが機能することも知らずに、非哲学で生きている。

信仰を脱却した聖アウグスティヌス

・宗教的信仰を不信心から回心した人たち;アウグスティヌス
「私が敬意と共感の両方を抱く聖アウグスティヌス・・トルストイは、哲学を究めたとでもいうのか、哲学では究極の疑問に対する答えが得られないと気づくと、幻滅して哲学を離れ、ある種の宗教に向かっていった・・私の理解ではウィトゲンシュタインも、その経緯はもっと曖昧模糊としていて中途半端であったが、同様のことをしていた・・トルストイとウィトゲンシュタインの場合、宗教が考慮に入れられたのは哲学に足りないものがあるとわかったからにほかならない・・私はこの生涯で、それまで見出せなかったものを宗教のうちに見つけるのにふさわしい時期を迎えたのだろう・・とにかく探ってみる価値はありそうに思えた・・」p190(19)

・マギー;初めて宗教の教義に本格的な考察をいれる
「私は基本的な宗教文献の研究と、できれば名高い解説書の一部にたっぷり時間をかけようと心に決めた・・信仰のある人たちとそれらについて話しあおう・・この類のことをやりたくなったときのように、私はその収入源として放送界に目を向けた・・ITVではスケジュール上、日曜の晩の早い時間帯に宗教番組を放送する必要がある(業界で言う『神の時間枠』である)局側にとってこれはやっかいな問題だった・・独立テレビジョン公社を満足させるくらいにまじめな内容で、しかも数十万の視聴者がBBCにチャンネルを替えて一晩中戻ってこないなどという破目にならないような番号を、いったいどう企画すればいいのか?私はこの神の時間枠を念頭に置いて、ロンドン・ウィークエンド・テレビジョンのために『論争』というシリーズを企画した・・毎回、私ともうひとりの人物が討論するという内容の番組である・・イギリスにおけるローマ・カトリック教会の長であるヒーナン枢機卿(すうききょう)とは、神の存在は立証できるか否かについて論じあった(今日に至るまでカトリックの公式見解では立証できるとされている)・・カンタベリー大主教とは、教会と国家の関係について論じあった・・イーノック・パウエルとは、キリスト教を信仰している以上は、国と地球全体の双方における富の再分配に、したがって彼の政治信条とは異なる福祉政治とでも言うべきものに努力を傾注すべき・・といったことを論じあった・・番組の構成上で変わっていた点は、司会者がいない・・ふたりの出演者のあいだを取りもつ者がいないところだった・・視聴者は・・生の討論を提示されたわけである・・ここが『サムシング・トゥ・セイ』よりも進歩した点だった・・私が直接カメラに向かって1分間ほどテーマを説明し、つづいてもうひとりの人物を紹介してから、議論を開始すべく難題をもちかける・・たとえば、ヒーナン枢機卿に対してはこんな具合に・・『神が存在するかどうかは私は知らないし、もっと言うなら、あなたも知らないと思う』・・私は、討論の一方の側から隠れた司会者としての役割をある程度果たすことを自分に課していた・・例を挙げると、議論はゆっくりと進め、一か所で停滞させないこと・・いちばん大事な論点が番組のなかで確実に浮上してくるよう配慮すること・・少なからぬ数の視聴者が理解していないと思われる事柄が説明してもらえるよう取り計らうこと・・常に私よりも相手に多くの時間を与えるようにしたので、この点・・」

 


本サイトでは、女性の心の疲れを取る、心の不安を解消する、心に癒しを与える、女性が生きていて幸福感と充足感を得られるために、西洋哲学の文献引用をし、作者の主観を外すために、読みにくい、比喩や隠喩、または文脈上のレトリックと言われる修辞学、これは雄弁術、弁証術、説得術ともいわれる記述上の技法を駆使しているため、女性は書物を読むのが難しくなってしまっているのです。それを、本サイトでは、断絶して、切り取られた文節で、タイトルをつけ、何が書かれているのかを見やすくしています。接続詞や感嘆詞、副詞を外し、主語と動詞に絞っているため、読みやすくなっています。

なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

その文献引用をパサージュ集と命名しています。
パサージュ集についての、コンセプトは次の記述をご覧ください。
女性の心を癒す落ちつかせるパサージュ|女性の不安を取る励ますための実践的哲学

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本サイトはそのような事情をふまえて、コンテンツを中心に記載し、その文脈も哲学性がないものはまったく採用しておりません。
本サイトを運営する哲学性を持つ専門者が、吟味して、あなたの生きる時間を想像して選出しており、アナログで入力するため、未完成のままであります。
随時、更新させていきますので、ぜひご活用頂ければなと存じます。

本サイト女性の心の疲れと不安を取るために励ますためのパサージュ集

女性の心の悩みを楽にして自立できる安心とは|フロイト死の欲動から女性の悩みをパサージュ

女性の悩み解決に近づくには|フリッチョフシュオンの秘儀と信仰の哲学で女性の悩みへパサージュ

女性に哲学から心を癒してもらう|ジル・ドゥルーズとベルクソン差異についてのパサージュ

ハリウッドとラカン女性の心に癒しを|ラカンの真理で女性の心の悩みを癒しにパサージュ

 


本サイトは、女性が自分の知り、それまで欲求は食欲、性欲、消費欲と思われていた基準を、知的欲求に変更する目的で作られています。
どうしてこのような女性専用でしかも、今の世の中ではほとんど行なわれていない哲学を内蔵させたのか?
この問い(テーゼ)の今の段階でわかっている地点は、女性には感性という自由な神経系を持つというところからです。
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tak

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