女性の心を落ち着かせる言葉

バタイユの至高性で女性のエロティシズム高める美意識に磨きにパサージュ

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バタイユの至高性で女性の美意識を磨いてエロティシズムでパサージュ

至高性 呪われた部分;バタイユー人文書院

第一章 至高性の認識

1,至高性の全般的かつ直接的様相

・かつての王は至高性に属していた
「本書において語られる至高性とは、国際法が定義しているような諸国家の主権とはほとんど関係ない・・人間の生において、隷属的で服従した様相に対立する様相に関して、私は全般的に語ろうと思う・・かつては首長とかファラオ、王、あるいは諸王の王と呼ばれたり人々・・われわれがその存在へと同一化するような存在ー現代における人間存在ーが形成される上で最も主要な役割を演じた人々に、至高性は属していた・・至高性はもろもろの神々にも属していたのであり、最高神はそれら種々の神々の特別の一形態であった・・」p8(1)

・祭司と王は時には至高性を等価する存在
「そうした神々に仕え、神々を体現しているような祭司たちにも至高性は属しており、それらの祭司たちは王と同一人物であることもあった・・封建制的なヒエラルキー全体・・聖職者階級のヒエラルキー全体にも至高性は属していた・・その全体はヒエラルキーの頂点を占めていた人々と程度の違いしかないとみなされていたからである・・」p8(7)

・至高性はあらゆる人間に属している
「神々や<尊厳なる人々>に帰属させられた価値を所有する者、それをけっして完全に失ってしまったことはないすべての者に属する・・本書において私はこれら<尊厳なる人々>について長い記述を行なうことになろうが、その理由は彼らがこの価値を見せびらかすように顕示するからであり・・そういうこれ見よがしの誇示がある根強い低劣さと仲よく肩を並べているからである・・彼らがその価値を顕示しつつ、変質させてしまうことも示したいと思う・・」p9(1)

・本当の至高性は乞食が大領主を超える
「至高性という言葉で一見思い浮かべられることがどのようなものであろうと、私が念頭に置いている至高性ー失われたかと思われる至高性は、たとえばひとりの乞食が大領主に勝るとも劣らぬくらいその近くにいるものである・・」p9(6)

・ブルジョワは異邦で至高性を求めていない
「原則として・・ブルジョワは最もそれに疎遠で、異邦の者なのだ・・それも自ら進んで異邦の者となるのである・・時としてブルジョワはもろもろの資力と資源を自由に手にし、そのおかげでこの世界の諸可能性を至高な仕方で享受することができるように思われるが・・そのときブルジョワはその本性からしてそうした可能性をなにかの裏のあるやり方でしか享受しない・・それになにかしら従属的な有用性があるかのような見かけを与えようと努めるのである・・」p9(8)

2,根本的な諸要素ー有用性の彼方の消尽、神的なもの、奇蹟的なもの、聖なるもの

・真の至高性の証明は富の消尽
「至高性を際立たせるのは、富を消尽するということ・・もろもろの富の生産するにもかかわらず、それを消尽することのない労働とか隷属性とは正反対の富の消尽である・・至高者は消尽し、労働しない・・それに対し、至高性の対極に位置する奴隷・・持たざる人間はもっぱら労働し・・自分たちが消費するのはただ必要最小限なもの、生産物のうち自らが生存し、労働することができるためになくてはならないものに限られている・・」p9(14)

・至高性のない労働者は最小限の消費
「原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する・・その逆に至高者は生産活動の超過分を消費する・・至高者は、もし彼が自分の想像のなかだけで至高者であるというのではないとすれば、この世界の生産物を自らの必要限度などをはるかに超えて享受することが実際にありえる・・そのことのうちに至高性は存している・・必要なものが保証され、生の可能性が無制限に開かれるときに、至高者は(あるいは至高な生は)初めて現われるのだ、と・・」p10(4)

・至高性は有用性を否定する生
「それと相関的に言えば、けっして有用性というものによって正当化されることのないようなかたちで諸可能性を享受することは至高なのである(有用性とは・・その目的が生産的な活動にあるもののことである)・・有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である・・」p10(10)

目的が生産的な活動の有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域。

・将来のために働くのは至高的でなく隷属的
「まず始めから持続を考慮に入れるということ、現在という時を未来の利益のために用いるということは、隷属的なのだと言うことができる・・われわれは労働するときには・・そうしている・・労働者がボルトを生産するとき、その生産は、このボルトが自動車の組立てのために役立つことになるはずの時を念頭において、それを目ざして行なわれる・・こんどはまた別の人間がその自動車の提供する快楽を至高な仕方で享受し、たとえば観想にふける散歩のためにそれを利用する・・」p10(12)

・隷属性の構造は『生存のための労働に。労働するために生存に』
「ボルトの製造者はこのような将来の自動車所有者の至高な快楽なことを、なにも個人的に念頭に浮かべていたわけでも、目標にしていたわけでもない・・この快楽があるからこそその対価が支払われ、そういう支払いは工場主が当然受け取れるものとしている売上げであり・・工場主はボルト製造者に遅滞なく賃金を払うことが可能となる・・この賃金を得るために労働者はボルトの旋盤にかけて加工をする・・その賃金のおかげで、原則的に言えば、労働者は自分の生存に必要なものを手に入れることが可能になる・・」p10(18)

・隷属性に入り込むと抜け出さなくなる
「そうだとすると彼は隷属性の円環をどこからも抜け出せないだろう・・彼は生存するために労働し、労働するために生存する・・至高な瞬間(モメント)ーそこではその瞬間それ自身以外にはなにものも問題とならないような瞬間ーは、いったいいつ到来しうるのだろうか・・実際、至高であるということは、現在という時以外にはなにものも目ざすことなしに享受することである・・」p11(5)

・労働者は至高性を求める習性もある
「もっともいま述べたような陳述は純理論的な抽象であって、実際的な事実を説明するという面においては漠然とした点が残されているということはよくわかっている・・たとえば現実的な世界を眺めてみると、労働者はその稼いだ賃金のおかげでワインを一杯飲むこともできる・・彼が自分で言うとおり、元気や体力を回復するために飲むのだとも言えるだろうが、実のところ彼は必要の迫られた不可避性をーつまり労働の原理であるような不可避的・必然的なものをー逃れようとする希望をこめて飲むのだと思われる・・」p11(10)

・労働者に潜む至高性は奇蹟的な要素
「労働者が奮発してワイン代を支払い、飲むというのは、その最も本質的なところから考えると、彼が呑み込むワインのうちに、ある種の味わいという要素、ある奇蹟的な要素が混入することになるからだと私には感じられる・・そういう要素が・・至高性の基底をなしているのである・・それはまったくささいなことだ・・少なくとも一杯のワインはある短い瞬間、自分が世界を自由に取り扱っているという奇蹟的な感覚をその労働者に与える・・そんなことを意識することもなく、ワインは次々と盃(さかずき)を重ねられるだけだろう(労働者は飲むとすぐそんなことは忘れてしまうだろう)・・」p11(16)

・至高性は世界を自由に扱う非合理さ
「そこに陶酔の原則はあるのであって、その奇蹟的な価値に異議をさしはさむことはだれにもできないだろう・・一方から言うと、ワインを飲みながら労働者がそうするように世界を自由に取り扱うこと、世界の持つ諸資源の可能性を自由に手にすることは、なんらかの程度まで奇蹟に参入することである・・他方から言うと、それはわれわれの渇望の基底となっているのだ・・」p12(4)

・人間的な意味での欲望の対象は遠くにある奇蹟
「われわれは生存するためにさまざまな欲求を充足しなければならない・・もしそれに失敗すれば、われわれは病み、苦しむことになろう・・が・・そういう必要で不可欠なものが問題となる場合には、われわれは自らのうちでいわば動物的なものが下す命令に従っているだけなのである・・人間的な意味での欲望の対象はそういう欲求よりももっと遠くにあり、それは私の言う奇蹟なのである・・」p12(7)

・必要性に定められているところを超えた生が至高性
「至高な生・・それを欠くと病み、苦しむといった不可避的な必然性に定められている必要なものを超えた彼方としての至高な生なのだ・・そういう奇蹟的な要素われわれの心をうっとりとさせる要素は、たとえばごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然(さんぜん)たる輝きにはほかならないということもありえよう(それは最も貧しい者、たとえ不可避的な必要性に圧しつぶされて荒んだ心にされてしまっているような者でも、時として深く感じとることだ)・・」p12(11)

不可避的な必然性に定められている必要なものを超えた彼方としての至高な生。女性が求めているのは、日常的のなかで奇蹟的な要素、われわれの心をうっとりとさせる要素である。

・至高性は奇蹟的なものであり美というかたちでの豊かさ
「それはワインのもたらすもの、最初の一杯から耽溺(たんでき)させるような陶酔に至るまでワインがもたらすものだということもありえよう・・もっと一般的に言えば、そういう奇蹟的なもの、人類(人間性)全体がそれを渇望するようなものは、美というかたちで、豊かさというかたちでわれわれのあいだに姿を現わす・・」p12(16)

・至高性は美や豊かさの反面暴力性ももたらす
「同時に激しい暴力性というかたちで、喪の悲しみ・・聖なる悲哀というかたちで現われる・・栄光というかたちでも現われる・・芸術とは・・建築、絵画、詩とはいったいなにを意味するだろう、ある驚嘆した瞬間、宙吊りとなった瞬間への期待、ある奇蹟的な瞬間への期待でないとするならば・・」p13(2)

・福音書;人間は神的なものによって生きると説く
「福音書は『ひとはパンによってのみ生くるにあらず』と語る・・人間は神的なものによって生きると告げている・・福音書にとってこの言葉はきわめて確実な自明性とみなされているので、そこにある根本的な原理を認めなければならぬほどだ・・『ひとはパンによってのみ生くるにあらず』というのはけっして忘れられることのない真実であって、かりに他のさまざまな真実があるにせよ、それらにもまして重きをなすのだ・・」p13(5)

・神的なものは奇蹟的なものと同じ
「神的なものというのは、おそらく奇蹟的なものの一つの様相にほかならないだろう・・ある意味で神聖ではないような奇蹟的なものはなにもない・・同時に奇蹟的でもあるのではないような神聖なものもありえない・・もっともこの問題には難しいところがある・・というのも奇蹟的なものというカテゴリーはたしかに神的なものというカテゴリーよりはもっと広い概念かもしれないが、それでもそのカテゴリーを確定しようとするのはきわめて困難だからである・・」p13(10)

・もしカテゴリーに分けるなら『笑いの対象は神聖』
「是非にと望むならば、私は笑いの対象は神聖だと言うことができると思う・・が・・それはまずもって私の感情・意見なのであって、今日のところはそれは万人の感情や意見ではない・・かりに私に理があり、私の感情・意見が正当なものであるとしても、その場合、私はなおまだそれを証明する必要があるだろう・・私は、穢れた(けがれた)もの、嫌悪感をそそるものについても、それは神聖だと言うことができると思う・・」p13(14)

バタイユが説く至高性;神的で奇蹟的なもの。不可避的な必然性の彼方にあるもの。穢れたもの、嫌悪感をそそるものも神聖であり、それも奇蹟的だとする。

・至高性を認めるなら、聖なるものの両義性と一致する前提がいる
「それが認められるためには、神的なものの両義性という原則、すなわち原理的に言って聖なるものの両義性と異なることのないような原則が、そのようなものとして了解されているという前提がなければならない・・おそらくもっと親しみがあり、もっと捕捉しやすいものは、エロティシズムの極限的な諸様相、エロティシズムにおいてある種の奇蹟的なエレメントを求めてやまない欲望であろう(といっても私たちはその領域のなかにもまた、笑わずにはいられぬもの、嫌悪感をそそるものを見出すということ、しかしもそれらの最も混沌とした様態において見出すものに変わりはない)・・」p13(18)

・至高性は究極な死と誕生
「死と誕生が聖なるものの奇蹟的な感情を、その最も高い程度まで私たちにコミュニケートするということもまた、なにか不思議な気がするのは言うまでもないことである・・」p14(6)

3,方法に関する考察

・至高性は複雑であるため分かりやすい記述が必要
「われわれがとりかかろうとしている領域(といってもその大きな拡がりのうちの、基本的なアウトラインだけだけけども)はきわめて複雑に錯綜しているので、どうしても首尾一貫した記述の必要があると感じられる・・もし至高なものが本質的に奇蹟であり、神的なもの、聖なるもの、笑わずにはいられぬもの、エロティックなものを・・また嫌悪をそそるものとか死にまつわるものなどをすべて同時に分有しているのだとするならば、私はこれらの諸様相の形態論を一般的に考察すべきなのではないだろうか・・?」p14(9)

・至高性の理解はある深い統一性をもつ
「これらの諸様相は、その外観は多様にヴァリエーションを持つと見えるけれども、実はある深い統一性をそなえているので、その統一性を説明しなければ、至高性を認識しようとする試みにおいてこれ以上進んでいっても空しいように思われるから・・が、それにもかかわらず私の考えでは、この形態論の考察という道に進んでいくのは最初にたどるべき道としては不適当であると思える・・」p14(15)

・至高性を説明するために最初から本質的な内容の検討に
「複雑に錯綜した諸領域を記述する形態論というものは、根本的な問題の多くが設定された後で、その位置づけの仕方にそってたどっていくことしかできないだろう・・それは最終的な結果としてあるべきもので、最後になって初めてそのようなものとして出現してくるしかないであろう・・そこで私は必要不可欠な点を超えてまで方法の問題に拘泥することはやめて、最初から本質的な内容の検討に入っていくほうがよいと思う・・」p15(3)

・バタイユの哲学的考察はこれまでの研究者がやってきた延長に過ぎない
「私の<論考>はーもしそれを作業・仕事という意味を持つ論考と呼びうるとしてー、これまでもろもろの専門分野において続けられてきた<研究者たち>の努力を延長しようと努めているに過ぎない・・宗教史、社会学、経済学、精神分析学・・などから私は・・可能な限り適切で納得のいくかたちで多くのものを借りたけれども、そのように借用した研究成果ははたして正当性を持つのかどうかについて、それほど細心に注意を払ったわけではなかった・・」p15(9)

・バタイユは至高性を形態論の考察のために忍耐強い探索をした
「私がそれらの学問から知識を得たやり方の点においても、それは一種ぶしつけな、遠慮のないやり方であったと言わねばならない(ただしそういう遠慮のなさは、あまりにも長く忍耐強い探索を続けた結果、いささかうんざりして生まれてきた遠慮のなさなのである)・・他方では、私は現象学が求める要請に対しても疎遠ではないように努めている・・おそらくただ一つのポイントに関して、私は新しい要素をもたらしているのだと思う・・」p15(13)

・欲求を充たすために遂行される行動から教えてくれるのは
「われわれの諸種の欲求を充たすために遂行される行動というものが教えてくれること、そういう教えを超えた彼方にあるようなものは、われわれはなにも知ることができないのだということを、基本的に私は認める・・そういう行動に役立つものなどを超えて拡がっているだろう・・われわれはたとえば実践のなかで、実践という手段を通じて獲得された学問=科学に関して、そういう学問はあらゆる利害関係などを離れた純粋なものであると、あるいは少なくともそうなりうるものだと言うこともできよう・・」p15(18)

・学問の本質は未来の服従
「学問はつねに後に来るはずの時に服従しており、そういう来たるべき時が現在というよりも優位に立つということを前提にしている・・学問=科学らしくふるまうということ、学問的な作品=作業をなすということは、後に来るはずの結果を目ざして、そういう目的のために現在という時のうちに与えられたときでも、そういう状況にはなんら変化がないということである・・」p16(5)

・ヘーゲルの凄い洞察;時間のうちで自己開示する根本さ
「ヘーゲルはそのことをよく洞察していた・・知的な認識は、たとえある決定的な仕方で、完璧なかたちで獲得されたとしても、根本的には、つねに時間のうちで自己開示しつつあるという様態においてしか私たちに与えられることはなにのである・・認識は精神のある種の瞬間的な啓示のうちに与えられるのではなくて、言説のうちに・・必然的に持続のなかで分節化され、連接されていく言説のうちに与えられる・・」p16(11)

・認識というのは有用性な操作全体
「計算という様式、なんらかの目的にとって有用な操作という様式で追求される努力のもたらす結果・・結局のところそういう形態においてのみ認識は・・最も深い認識は、初めてわれわれに全的に現われてくる・・認識というものが、操作の究極的なモメントと混同されること、あるいは操作の目的(終極)と混同されることはけっしてありえないだろう・・認識は操作全体であるのだから・・」p16(15)

・認識はときには有用性を欠いた対象でもありうる
「ある一つの有用な操作の目的は、厳密に是非にもという場合には、有用性を欠いた対象であることもありうる・・たとえば先ほど述べたように、ゆったりとして瞑想に耽る(ふける)散歩のために用いられる自動車がそうであるように・・そのとき自動車は有用なものではなくなって、それを生産した操作から、思考のなかでは(たとえそのメカニックな現実性においてではないにせよ)かなり明確に離脱させられることになる・・」p17(1)

・認識の操作に気づけないなら現象から離脱できない
「もし人々が認識の操作というものを、その同質性のうちに考察しているならば、このような離脱はどうしても可能にならないだろう・・認識するということは、次のようなものに比較されることができよう・・もし自動車を運転することがただそれだけのことで、他の本質的な、新しいアスペクトをもたらさず、もっぱら工場の労働の同質な延長であったといたら、そのとき自動車を享受するということがそうなるはずのものに比較することができるだろう・・」p17(7)

・認識は至高性ではないし操作に類似しないものには認識しない
「認識するということはつねに努力すること、作業することであり、つねにある程度の隷従的な操作であって、そういう操作は非限定なまま再開され、無際限に繰り返される・・けっして認識は至高ではない・・もしそれが至高なものでありうるとすれば、それは瞬間のうちに生起しなければならないだろう・・瞬間とはあらゆる知の外に、その手前に、あるいはそれを超えた彼方にとどまっている・・われわれは時間のなかにおけるもろもろの規則正しい連鎖は認識しているし、さまざまな定数も知っている・・が・・われわれは操作に類似してはいないようなものについてはまったくなにも認識しない・・隷従的な存在の様態、未来に服従し、時間のうちにおけるその連鎖に服従した様態からはみ出すようなものに関してはなにも知らないのである・・」p17(11)

・人間は瞬間についてまったく認識しない
『われわれは瞬間については、まったくなにも認識しない・・ということは・・われわれは、決定的にわれわれを動かせるものについて、われわれにとって至高な重みをもつものについて、なにも知らないということである・・認識がそうであるような操作は、それが至高性を対象とすることになるやいなや、操作としては自ら停止してしまうのだ・・」p17(18)

・瞬間は認識できないのに意識はしている
「にもかかわらずわれわれは、瞬間を意識してもいるだろう(というか、私たちは瞬間しか意識していないとさえ言えよう)・・意識はまた同時に瞬間からの逃走でもあるのだ・・意識が自らを明晰かつ判明なものと欲する程度にちょうど応じて、言いかえれば意識それ自体の漠然とした認識なのではなく、ある対象=客体の知となる範囲にまさに応じて、意識は瞬間からの逃走でもあるのだ・・」p18(5)

・意識が至高なのは非ー知においてのみ
「実際、一つの対象=客体の知は、その対象を持続のうちに繋がれた対象として捕捉しようと望む・・現在という瞬間を超えて持続のうちに繋がれたものとして捉もうと欲するのである・・瞬間の意識がほんとうにそれとしてありうるのは・・その意識が至高なのは、非ー知においてのみだろう・・」p18(9)

・人間は奇蹟的になるのは瞬間を生きるときだけ
「われわれが瞬間から逃走することなく、瞬間のうちにいるのは、ただわれわれのうちで認識のあらゆる操作を廃棄しながらそうするというときだけだろう・・少なくともそんな操作を中和し、無効にしながらそうするほかないだろう・・そしてそういうことが可能なのは、もろもろの強烈な情動の効力ー思考の絶え間ない展開を砕き、中断し、後景へと退ける効力ーに支配下にあるときであろう・・」p18(12)

・涙の対象、笑いの対象が思考を砕く
「もしわれわれが激しく泣くとすれば・・泣きじゃくったり、息が切れるほどに笑ったりすれば、そのような状態に似てくるように思える・・それは必ずしも、笑い運動・・涙の運動が、それ自体によって思考を停止させるためではない・・思考を砕き、われわれからあらゆる知を取りのけるのは、実のところ、笑いの対象であり、涙の対象なのである・・」p18(17)

・思考を砕き、亀裂の瞬間、裂け目の瞬間に笑いと涙の対象がある
「笑いや涙は思考の空白のなかで・・それらの対象が精神のうちに穿った(うがった)空白のなかで炸裂し、奔出(ほんしゅつ)する・・それでもそうした笑いや涙の運動は、ちょうど詩とか音楽、愛、舞踊などの深く韻律化された運動と同じように、あの亀裂の瞬間、裂け目の瞬間・・最も大切な瞬間を保持する力、果てしなくそれを繰り返される力を持っている・・あたかもわれわれが哄笑(こうしょう)とか鳴咽(おえつ)の絶え間なく繰り返されるしゃくりあげのうちで、その瞬間をとめようとするかのように・・それを凝結させようとでも試みるかのように・・期待がなにでもないものへと解消されていくそうした奇蹟的な瞬間は、われわれを、通常われわれが有用な活動の連鎖のなかでその上を這っている地面から引き離すのだ・・」p19(2)

・至高性がわかる思考の対象は笑いと涙の対象
「ある種の稀有な瞬間、特権的な瞬間においては・・認識の他の諸対象と同様の仕方で、その諸条件が知られることのできるような思考の対象があるのだ・・たとえばそれは笑いの対象であり、涙の対象である・・しれらの対象の特性をなすことはーたとえこのことは仮説によってそう言う以外ないとしてもーそれらの対象を概念的に抱こうとする思考が、そうした対象たちを解離させるということであり・・そのことによって自らも思考としては溶解するようになるということである・・」p19(10)

・溶解した対象がなんであったかを語りはじめる
「この溶解に先立つ諸内容は知られることができるし・・それらの内容がそこで溶解する諸条件も知られることができる・・そうした諸条件は、たとえばもしそこで問題となっている対象が一種際限のない笑いを惹き起こすとするならば、知られることができるだろう・・われわれは、無について・・そこにおいて対象が溶解するなにでもないものについて語るのをやめ、溶解した対象がなにであったかについて、その溶解を決定したものがなんだったかについて語るようになろう・・こうしてわれわれはどうにかこうにかではあっても、至高なものについて言葉によって語ることがかろうじて可能になるであろう・・」p19(15)

・かろうじて至高について言葉で語ることが可能
「それで至高であるものを前にしては自らを停止するほかない思考も・・その対象がなにでもないものへと解消されていく地点までは、自らの操作を正当に追求するのである・・なぜその地点までかと言えば、その対象は、有用で服従したものであることをやめ、至高なものになるのだが・・同時にそのことによって、存在するものであることもやめるからだ・・」p20(3)

4,幸福な涙というパラドックス(方法に関する考察の続き)

・涙に関する考察で奇蹟的なものの観念
「至高性の運動を全般的なかたちにおいてのみ考察しようとする試論においては、笑いや涙の特有な様相、いま述べたような方法上の示唆がとりわけ参照しようとしている様相に長々と関わる必要は、原則的にはないと思う・・笑いに関しては、このような見方はかなり一般的に認められているということに注意を喚起するだけでよしとしておきたい・・涙についてはもう少し強調しておくべきだろう・・なぜかといえば、私は実際、涙に関する考察から奇蹟的なものという全般的な観念の抽出しているからであり・・その奇蹟的なものという観念こそ本書の根幹をなしているからである・・」p20(8)

・バタイユの至高性の考えを生まれたときのままに記述
「ここではまず私の考えを、それが生まれはじめたときのままに提示してみることがよいのではないかと思う・・それに較べると、その考えが最終的にどれほどのまとまりを持つか否かということは、関心を惹く度合が少ないと私には感じられるから(が、むろんのことそういう最終的なまとまりに到達するためには、ある莫大な時間を要するほかないということもまた当然のことなのだ)・・」p20(15)

・バタイユは涙の持つ両義性、不幸な出来事と幸福な出来事
「すでにずっと以前からのことだが、涙の持つ両義的な様相ーつまり不幸がそれを誘発するのとまったく同様に、なんらかの幸福な出来事も涙を溢れさせるという様相ーに、私はとらえられ、強い印象を受けてきた・・幸福な涙は、笑いがそうであるようには、多数の綿密な探求の対象になったことはないのである・・」p21(3)

・幸福な涙の本質が説かれなかった欠落と心理学
「この驚くべき欠落を直視するだけでも、私には、これまで積み重ねられてきた心理学的な知識の集積がどれほど期待はずれな性質のものに過ぎないかを、よく示しているのではないかと思われた・・昔からときどき私は、ある種の偶発的な状況、私を狼狽させ、当惑したままにしてしまうような状況において、突如として幸福な涙が眼に溢れてくるという経験をしたことに気づいていた・・」p21(6)

・バタイユの幸福な涙のエピソード
「一つの事例が私の記憶によく残っている・・婚姻関係上私の従兄にあたる者のうちの一人は、英国海軍の士官であった・・大戦中、彼はフード号に乗艦する勤務についていた・・フード号は撃沈され、乗員はみな艦と運命を共にして海の藻屑と消えたが・・その直前、私の従兄はある任務をおびて派遣され、もっと小型の艦に乗り移っていたのである・・英国海軍省は彼の母に対し、公式に彼の戦死を通知した・・それは当然だった・・彼はフード号の乗員の一人であったし、その乗員はほぼ全員戦死したのであるから・・こうして彼の母は数日後、突然息子の手紙を受け取ることになった・・その手紙には・・『奇蹟的に』彼が死を免れたときの状況が物語られていたのである・・私がその従兄と知り合いになったのはずっと後になってのことであって・・そうした出来事は、最初から個人的に私を感動させるような出来事というわけではなかった・・ただそれからまもなくのことだが、私はこの話を友人たちに語って聞かせる機会を持った・・私自身ひどく驚いたことには、そのたびごとに私の眼には涙が浮かんできたのである・・私にはその理由がわからなかった・・それでも私はそうした各々(おのおの)のことがらについて、ひとはいったいどの程度まで知っているのかということを調べてみる習慣がある(もっとも私はかなり曖昧に、それはたぶんこれこれの種類の本のうちに見つかるだろう、と自分に言いきかせねばならなかったのではあるけれども)・・が、やがて私は、結局のところ、だれもそれについてなにも知らないのではないかという疑念を抱くようになった・・たとえ条理に合わない仮説にせよ、少なくともその領域に関する探求の緒は導入したという価値だけは持つような仮説を提起したと思える人は、どうもだれひとりとしていないのである・・こうしたパラドクサルな涙がどれほど興味深いものであるかどうかという点に気づいた人は、おそらくだれもいなかったのだ(ところが笑いに関してならば、まったく副次的な問題でさえも多数の研究の対象となってきたにだった)・・ただしこういう欠落が絶対にそうだと確信しているわけではない・・もっと調べてみなければならないだろうということはよく知っている・・それでも私はある講演のなかでそのことについて語ったことがあったが、その場には多くの著名な哲学者も列席していた・・どう見ても私よりそのことを知っている者はだれもいなかったのである・・」p21(11)

・この問題をバタイユは自力で見つけ出す決意
「このこと自体はとくにどうこう言うほどのことはない・・が、とにかく私は独力で、私を驚かした問題を解くように努めなければならなかったのである・・まず私が注目したのは、このような涙となんらかの成功をおさめることとの間に、関係があるか否かという点である・・ひとが喜びのあまり涙を流すことはだれでも知っている・・私は喜びを感じたというのではなかった・・私の考えでは、成功というものは、もしどうしてもそう想定したいというならば、ある一群の事例に・・それについて私が今日よりはもっと全般的で、もっと詳細な表象をとにかく持っていた一群の事例を呼応しているのではないかと思われた・・そしてまったく突然にー私が本書に関わる諸問題を考察していた最中にーこういう考えが浮かんできた・・奇蹟こそが、あるいは奇蹟的なもののみがこうした幸福な涙を生じさせるのではないか、という考えが・・」p22(16)

・奇蹟的なもの;不可能なのにそれでもそこにある
「奇蹟的なもの、あるいはそうではないとしても、奇蹟的だと思われるものーなぜならたとえそれに類似した状況は多くありうるとしても、それと同じ事態が繰り返されるような期待することは、不可能と感じられるようなものであるから・・いずれにせよわれわれは、自分の努力を積み重ねることを通じては、それを期待することはできないのだ・・」p23(6)

・奇蹟という言いまわしの精確な記述
『不可能なことなのに、それでもそこにある』・・この言葉は、聖なるものという意味を担いうる唯一の言い回しであるようにかつて私には思われた言葉である・・同時に私は、芸術とは・・それ以外の意味を持つものではないと思った・・芸術とはつねに望外のものへの、ある種の奇蹟へのこの上もない希望に呼応する答えなのである・・芸術をはかる尺度は、一種天与のもののように思えるのだ・・それに対し才能とは理性的な手段、説明可能な方策に関わっており、そういう方策のもたらす結果は、いわばけっして望外の持つことはないのである・・」p23(10)

女性が求めている生き方は理性的ではなく、奇蹟的。夢の世界やこうなったらという詩的な世界は、言葉で説明不可能であり、女性は感性を豊かにする感覚的運動作用は奇蹟を作ってあげなければならない。

・バタイユの思索によって、思ってもみなかった諸種の関係の露呈
「私がこうして望んだのは私の思索のたどった道筋を提示しようとすることであり、そうすることで少しずつ、ついには、これまで思ってもみなかったような諸種の関係を露呈させようとすることだ・・そうした諸関係について、あるいはまた私がそれに基づこうとした方法について、いきなり理論的な論述を行なうよりも、そのほうが望ましいと考えたからである・・」p23(17)

・バタイユは涙の対象に予期しない人間的なものを知った
「このような奇蹟的なものひとがまったくそれを予期もしていなかったところに・・涙の対象のうちに私がとうとう見出すことになったものーは、本質的に、人類(人間性)の期待してやまぬことのなかに書き込まれているに違いないという考えに、私はただちにとらわれた・・」p24(2)

・バタイユは涙の対象と出会い、人が奇蹟にも渇えていると気づく
「そのとき初めて、私は心の奥深くで、ある確信の感情を込めつつ自らにこう言うことができたのだ、『ひとはパンのみを必要としているのではない、ひとはまた奇蹟にも渇えているのだ』と・・」p24(5)

・バタイユの発見。幸福の涙と同様に不幸の涙も同じエレメント
「私はとくに次のような決定的に重大な点を了解したと信じた・・私が幸福な涙のうちに発見したものは、まったく同様に不幸な涙のうちにも見出されるということである・・この奇蹟的なエレメント、私の眼に涙が溢れてくるたびごとにいわば茫然とした驚きのうちに私が認めたエレメントは、不幸のうちにもまた欠けてはいなかった・・」p24(7)

・同類から剥奪する死とはどんなものなのか
「私の同類から・・私がまさしくその者にこそ存在を認めていた同類から、それが存在することを剥奪する死とは、いったいなんであろうか、もしそれがあるネガティブな形態の下での望外なものでないとするならば、息を詰まらせる奇蹟でないとするならば・・『不可能なことなのに、それでもそこにある』・・」p24(10)

・バタイユのエロティシズム;死のうちに奇蹟的なもののネガティブな類似性を見つける
「死が人々に抱かせる感情をこれ以上みごとに表わす叫びがあるのだろうか・・われわれは死についてこう言うことができないだろうか・・死のうちにわれわれはある意味において奇蹟的なもののネガティブな類似物を見分けるのだ、と・・死が・・われわれの愛する者、身近な親しい者を襲うからこそ、いっそうわれわれにとっては信じがたいことであり、もしそれが・・死がそこになかったとしたら、どうしてもそんなことがありうるとは考えられず、想像もできないようなことがあるという意味で、一種奇蹟的なもののネガティブな相似物を見出すのだ、と・・」p24(14)

5,ネガティブな(死の)奇蹟的なものとポジティブなそれとの等価性(方法に関する考察の結び)

・死のネガティブな奇蹟的なものの原理
「最も注目すべきことは、このような死において与えられるネガティブな奇蹟的なものが・・奇蹟的な瞬間とはまさに期待がなにでもないものへと解消されていく瞬間にほかならないという原理に、きわめて明確に呼応していうことである・・実際それはわれわれが期待の外へと投げ出されるような瞬間だ・・」p25(3)

・隷従性から解かれた生命の至高性
「隷従を強いてやまず、現在という瞬間をなんらかの予測された結果へと服属させる期待、人間の習慣的な惨めさ(みじめさ)をなすような期待から放擲(ほうてき)される瞬間なのだ・・奇蹟においては・・われわれは未来への期待から投げ返されて、瞬間の現存性に直面するようになる・・ある奇蹟的な光、その隷従性から解かれた生命の至高性の光によって照射される瞬間の現存性に浸されるのである・・」p25(6)

・至高性はなにでもないもののうちへ
「私がそう述べておいたとおり、期待が解消されていくのはなにでもないもののうちへなのだ・・われわれは次のような二重の問いを提起しなければならぬだろう・・もしこのなにでもないものが死のそれであるとすれば、そういう瞬間がいったいなににおいて生命の至高な煌き(きらめき)であるのかがよくわからなくなるのではないか・・あるいは逆にもしそこで問題となっている魅惑してやまぬ奇蹟的なアスペクト、たとえば正真正銘の芸術作品の極限的な美しさのようなものであるとすれば、それではなぜそういう美がなにものでもないのか、なにゆえ美はなにものでもないものという意味でしか持たないのか、という理由がよくわからなくなるのではなかろうか・・」p25(11)

・ネガティブな奇蹟性は欲望と逆向き
「私はあるネガティブな奇蹟性について語ったが、そういうネガティブなものにおいては、奇蹟的なエレメントはいわゆる欲望とは逆向きになっているように思える・・このような語り口は、あるポジティブな奇蹟性が存在しているということ、それのみが通常この奇蹟という語に結ばれてるいる価値を正当化するように思え、そしてそのポジティブな形態がある種の善への期待に呼応しているような奇蹟性が存在するということを当然のものとして含んでいる・・」p26(1)

・バタイユの奇蹟性への脱構築が本当に認識から離れているのかを確かめる
「この点に関して・・このような難問に答えようとするために、私は、自分のたどった方法がどのようにして認識の通常の道程からはるかに離れた地点まで私を導いていったのかを、はっきりと示したいと考える・・もうずっと以前から私は、他の人々のように認識を追求する道をたどるようにはすまいと決断していた・・」p26(7)

・バタイユは他の哲学者ように認識を追求するのではなく非ー知を追求
「その逆である非ー知こそ求めようと決めていたのである・・私はもはや自分が行なう努力の報酬が与えられる時を待とうとはしなかった・・私がついに知ることに到達するであろう時を期待しなくなった・・私は自分がもはや知ることのないような時を・・私の当初の期待がなにでもないものへと解消されていくような時を待ったのである・・」p26(10)

・知ることを求めないバタイユの渇望
「ことによるとそれは、一種の神秘主義だと言われるかもしれないーつまり知ることを求めまいとする私の渇望が、ある日ついに、かつて修道士たちによって<神秘的信仰>という名称を与えられた経験と区別されないような領域に達した、という意味においてならば・・が、しかし私はあらかじめ抱かれているような前提など一切持たなかったし、また<神>も持たなかったのだ・・いずれにせよこのようにふつう認識がたどる道程とは逆さまに進もうとする仕方ーそういう道程からなんらかの結果、通常期待されている結果を抽き出そうとするのではなく・・その道から外へ出ようとする仕方ーは、いわば存在の至高性、また思想の至高性という原理へと導いていくのである・・そういう至高性の原理は、さきほど私が位置した面から言えば次のような意味を持っている・・思考とはーなんらかの期待された結果に従属し、全的に隷属性にほかならない思考とは、至高なものになることによって存在することをやめるのであり、らだ非ー知のみが至高なものである、という意味を持っているのだ・・」p26(14)

・非ー知を追求し、認識の活動はそれを解消する瞬間がある
「それにしても、私がこのようにはっきりと言明する決断とか、そこから生じる、この上ないほどの結果・・後に来るはずのあらゆる結果を否定するに至るという結果などは、おそらくそれだけではこの非ー知の思想を、人々の注意力に強くアピールするまでの力を持てないだろう・・私はこの時点で、私の位置する立場の最も本質的な部分を示さねばならぬと思う(前にも述べたとおり、概略的な記述に限るのではあるけれども)・・」p27(8)

・思考は至高なものになることによって存在をやめる
「私は非ー知について塾考したが、そうするうちに人間の生は、私が非ー知に関係づけるような瞬間・・認識を目ざして絶え間なく活動している操作がそこではそれ自体を解消してしまうような瞬間に富んでいるということに気がついたのである・・そうした瞬間の例として私は、ひとがすすり泣く時とか、息を切らせるほどに笑う時などについて語った・・そしてそれらの経験においては、思考の通常の展開が砕かれてしまうのだと述べた・・人間の生のこのアスペクトーたとえそれを自然のアスペクトとまで言わないにせよーに私は細心の注意を払ったのであり、そういう経験のうちに私の隷従性が解消されていく出口を求めようとしたのである・・」p27(12)

・涙や笑いの対象は思考が飛び散り、消え去る地点
「涙や笑いの対象はーそしてまたエクスタシスやエロティシズム、あるいはポエジーのようなそれと親近性のある他の諸効果の対象はー思考の対象がそこでは飛び散って消え去る地点そのものに呼応しているように思われた・・その地点まではたしかにそれは認識の対象であることができた・・」p27(19)

・認識の努力は一定地点を超えるほど消耗する
「そうであるのはその地点に至るときまでにしか過ぎず、それを超えて認識しようとすると、その認識の努力は必ず挫けてしまうのであった(いかなる哲学者であれ笑いの問題を徹底的に究明しようとすれば、どうにも進みようのない不可能性に突きあたって消耗してしまうという経験を知らぬものはない・・が、おそらくポエジーや、エクスタシス、エロティシズム・・などもまたそれに勝るとも劣らないほどの解きがたい問いを提起しているのだ)・・そういう認識の努力は、問いを解こうとする試みのうちに非ー知が当然のものとして内包されているのでない限りにおいて、必然的に挫けなければならなかったのである・・」p28(3)

・対象である『なにでもないもの』
「思考のこの上もない対象として捉えられたあのなにでもないものそれ自身から外へと出る思考、自らを離れて、一切の対象というものの解消になるような思考のこの上ない対象として捕捉されたなにでもないものーが、問いを解くことのうちに内包されているのではない限りは、そうだったのである・・」

・『涙に関するパラドックス』はある種思考の頂点
「このような私の模索のあとをたどってみてくださるなら、次のことを看取するのは造作もないことだろう・・もし私が以上のような立場に位置しているのではないとしたならば私を困惑の極みに投げ込んだかもしれないようなこの『涙に関するパラドックス』も、それが逆説的であるどころかむしろある種の思想の頂点にあるものとして私に現われたということである・・別様に言えば、その思想の目ざす究極が、その思想自体の通過していく軌道を固定しておくボルトそのものを抜いてしまうような思想の絶頂をなすものと思われたということである・・」p28(13)

・至高性は奇蹟的なものー幸福な出来事が死と同じ効果を持つ
「相反するものの等価性という逆説的な側面が私を強く捉えたのではなかった・・というのも幸福な出来事が死と同じ効果を持つという事実、通常は最も不幸な出来事とみなされている死と同様な効果を持っているという事実は、私にとっては啓示ではなかったからだ・・もうずっと以前から私はそうした諸関係の示す性格、いわばありふれた性格をよく意識していた・・」p28(18)

・至高性と奇蹟的なものー死は不可能性をもつありえるもの
「そういう事実が、それまでも私の眼を眩惑してやまなかった一条の光明を、真に盲(めしい)となると感じるまでに眩いものにしてしまったのは疑いない・・『死とは、ありえないことなのだが、突如として現実へと変わる不可能性なのだ』という死についてのゲーテの短い言葉こそ、あの最も怖るべき出来事の持つ奇蹟的な性格をみごとに感得できるようにしてくれると思われた・・」p29(4)

『死とは、ありえないことなのだが、突如として現実へと変わる不可能性なのだ』;ゲーテ

・ゲーテの死の奇蹟的なものへの凄まじい価値
「その言葉はそんなことを言おうとしていたのではなかったかもしれないが、少なくともそれだけの価値を持っていた・・最も強烈な印象を私に与えたものは何かと言うと、さまざまな反応の動き・・計算されているのではない、もろもろの反作用的動きというものが、同一の効果を持っているということだった・・」p29(7)

・同一の効果;ポジティブとネガティブを相殺する
「そういう同一の効果は、ある一定の観点からすると、ポジティブなものとネガティブなものの相違を消し去る力を持っていた・・極度の幸福とこの上ない不幸の双方を、ほとんど無差別なままに・・われわれの思考や活動の通常の進め方とか手続の仕方がそこでは解消されてしまうような地点へと位置させることによって、矛盾したものではなくしてしまう力を持っていたのだ・・」p29(11)

・理性を超えたような衝迫力が奇蹟に至高な価値
「最も明白なことは・・理性を超えたようなある種の衝迫力こそが奇蹟に至高な価値を与えるということ、たとえそれが不幸な奇蹟であろうとそうせずにはおかないということであった・・なにものにもまして重大であるもの、痙攣的な嗚咽のなかで涙がじっとこらえているものがなにであるのかと言えば、それは、われわれの眼前にある、またわれわれに向かってくるあのぞっとするような瞬間、が、それにもかかわらずわれわれが心ならずも驚異的だと感じてしまう瞬間なのだ・・」p29(11)

・『不可能性が、突如として現実へと変わった』瞬間
「この瞬間はおそらくわれわれの不幸を決定しているのだが、それでも奇蹟という意味を失うことはなかった・・というのもわれわれの裡において、そのときまでは必然的に隷従させられていたもの、堅く縛められていたものを解消する力を持ちつづけているのだから・・他方から言うと、幸福の極みに流れる涙のうちに期待がかなえられたという意味を読みとる必要はまったくないだろう・・なぜならこうした歓喜の涙の対象は、それ自体予期せぬものなのであり、ちょうど死がそうであるように、まったく突然襲ってくるもの・・不可能なのに突如として真実となるもの、存在するようになるもの以外ではありえないからである・・」p30(3)

・待っているのはうんざりさせるような状態
「こういう場合、期待する対象というのは、欲望の対象と同じとは言えない・・われわれが期待しているのはーおそらく強い不安のうちに待っているのはー、そのように待つということが道理にかなっているものであり、たとえばある一つの状態、事物の状態、すなわちうんざりさせるような状態が持続するよう待っているのだ・・われわれは欲望が暗黙のうちに示唆しているような結末を待ってはいない・・というかあえて待つことはないし、待つことができないのである・・」p30(10)

・欲望が呼び起こす希望
「さらに言えば、もしわれわれがそれをあらゆる道理に逆らって待っているのだとしたら、われわれはそれを待っているのではない、と言うほうがもっと真実に近いのではないか・・このように欲望が呼び起こす希望は、けっして正当化されない希望、理性によって断罪されるような希望、望まれた対象を期待することとは異なり、またそういう対象が持続するのを待つのとは異なっている希望なのである・・こうして私が期待と呼んでいるもの、なにでもないものへと解消されるものとは、つねに、理性が不可避的に行なう計算のことなのである・・」p30(16)

・重要なのは、ある思いもよらず、望外のアスペクト
「次の点はもう一度強調しておきたい。。ある一つの観点ーおそらく限られたものではあろうが・・われわれがいまやそこへと到達する観点ーからすれば、けっしてなにものもその後に続くことのないような期待という状況において、そういう具合に期待を欺き、不意を打つような驚愕が、はたして悲哀に満ちているのか、それとも歓喜なのかを知るということは、せいぜい二次的にしか重要性を持たないということである・・」p31(4)

・まったく不可能でありえないと思い込んでいたアスペクト
「この観点から見て第一に重要なのは、ある思いもよらぬ、望外のアスペクト、予期もせず、まったく不可能でありえないと思い込んでいたアスペクトが不意に開示されるということだ・・ここで次のような注目すべき事実を喚起しておくのは実際時宜(じぎ)にかなっているだろう・・オセアニアのある諸島においては、王の死が民衆全体のあいだに一種の猛り狂った激昴を惹き起こしたという事実である・・」p31(8)

・常識的に成立している規範の転倒
「そういう奔騰(ほんとう)状態においては、可能なもの(ありうるもの)が、通常はそれに基づいて成立しているもろもろの規範は転倒されてしまい、たとえば若者たちが、突如、我先に競って殺害したり、暴行することもあった・・死が王を襲ったとき、死は住民全体をそのきわめて可感的な箇所において襲ったのであり、そうなると潜在的に圧力をかけていた激しい力は、ある無秩序なエネルギーの濫費(らんぴ)へと向かって行使されるのだった・・たとえば大いなる不幸というしるしをおびた巨大な祝祭のうちに、力は濫費されたのである・・」p31(12)

・なにでもないものは失望させられた期待の示唆
「期待が欺かれてなにでもないもののうちに解消されていくということが生じるたびに、そういう失望させられた期待が密かに示唆しているのは、突如として生の流れや経過が転倒されるということだ・・この瞬間に開かれる奔騰(ほんとう)の可能性を、発作的な笑いの渦が、あるいは度を超した涙が汲みつくすということも、時にはあった・・」p31(17)

・生の流れの転倒は奔騰の可能性に侵犯される
「しばしばこのようにして誘導された侵犯は、常軌を逸したまでの侵犯行為へと発展していく・・失望させられた期待が告げているもの、それはまさに瞬間の君臨ということであり、性的な放縦とか激烈な力の奔出(ほんしゅつ)の道を、そしてまた過度の濫費(らんぴ)や祝祭の道を拓くのである・・」p32(2)

・至高性は死と婚姻を祝う
「このようにして至高性は死と婚姻を祝うことになろう・・一人の王とは・・すぐれて奇蹟的な創造物であり、それ自身のうちに奇蹟の現存性が有するもろもろの徳(効力)を集約している・・これらの徳(効力)は、ある力学的な均衡(バランス)がとれているに応じて、秩序を維持することや可能なものを保全しておくことに協力して貢献している・・」p32(5)

・奇蹟の現存性は絶対的王権などの不可能性が前提
「そうであるのは、王の権力ーあまりにも神聖なので、それを侵すようなものがなにかありうるなどとはだれも思ってももなかった権力ーの無欠な完全性が、侵犯の再来を、そして激しい暴力性の回帰を保証している限りにおいてなのであり、ちょうど・・その程度に応じてそうなのである・・死という<奇蹟>はこういう至高な要請の延長線上に位置しているのだ・・瞬間の君臨のうちに、不可能なものを呼ぶ要請、突如として真実なものとなる不可能なものを呼び出す至高な要請の延長線上に・・」p32(9)

・至高性と奇蹟的なものは期待を拘束する不可能性がいる
「肝要なことは、いつの場合にも、期待がつまり実行的な活動のなかで拘束するもの、その意味が結果を理性的に待つことのうちに与えられているような活動のなかに潜む捕縛(ほばく)するものとしての期待がーまったく思いもよらぬ、驚くべき様態でなにでもないものへと解消されるということなのである・・」p32(15)

 


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なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

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パサージュ集についての、コンセプトは次の記述をご覧ください。
女性の心を癒す落ちつかせるパサージュ|女性の不安を取る励ますための実践的哲学

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本を購入することはネットから容易に行なうことができますが、その中に埋もれてる女性の知的欲求を磨くためのコンテンツ(文体)に出会えません。
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本サイトはそのような事情をふまえて、コンテンツを中心に記載し、その文脈も哲学性がないものはまったく採用しておりません。
本サイトを運営する哲学性を持つ専門者が、吟味して、あなたの生きる時間を想像して選出しており、アナログで入力するため、未完成のままであります。
随時、更新させていきますので、ぜひご活用頂ければなと存じます。


本サイトは、女性が自分の知り、それまで欲求は食欲、性欲、消費欲と思われていた基準を、知的欲求に変更する目的で作られています。
どうしてこのような女性専用でしかも、今の世の中ではほとんど行なわれていない哲学を内蔵させたのか?
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tak

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