精神分析の再編

ラカンの精神分析のパサージュ|女性のための哲学、女性の美意識磨き。

投稿日:2017年9月9日 更新日:

ラカンの精神分析とパサージュ

「かれの内の過剰さ、『現実的なものへの情熱』、その諸対象に向かい合っている別のラカンを断片的に浮かび上がらせることだった。一言で言えば、かれにとっての現実的なもの、象徴的な宇宙から排除されたもののことだ。」エリザベート・ルディネスコ;p13(10)

「人種主義と共同体主義、無知への情熱と思惟への嫌悪、男性性の特権の喪失と野放図な女性性の過剰、抑うつ社会の到来に、啓蒙と革命の時代の行き詰まり、宗教を基盤にした学問と科学的言説を基盤にする宗教とのあいだの死を賭した闘争、他方で生物学的存在に還元された人間。」p13(15);1971年にラカン語る

「ラカンは真理の探究こそが救済ではなく進歩を、無知蒙昧ではなく啓蒙を手に入れるための唯一の方法であると確信していた。」p14(13)

「合理性はつねにその反対に転化し、自分自身の破壊を引き起こすことを理解しておく、という但し書きも必要。だから、ラカンは儀式や伝統、象徴的な構造を擁護した。」p14(14)

「まさにこの時代に、ラカンはフロイトの沿って前進していくことが民主主義社会において唯一可能な展望であり、人間の持つ複雑さを最高のものから最低なものまであらゆる側面から把握する唯一のものだ、と断固主張しつづけたのである。」p16(4)

「ラカンはまた、フロイト的なやり方でアウシュヴィッツの遺産を考察できた唯一の精神分析家だった。その脅威を描くためにかれはギリシア悲劇からマルキド・サドの著書までを活用している。」p16(9)

「フロイトの後継者たちのなかには、ラカンのようにナチスによるユダヤ人絶滅を通じて、死の欲動という問題を再解釈することのできたものは誰一人いなかった。」p16(11)

「こういう改訂作業と、そしてラカンが人間のもっとも冷酷で暗い部分として感じ取ったものが放つ魅惑とがなければ、フランスのおける精神分析はピエール・ジャネやテオデュール・リボー、さらにはレオン・ドーテやギュスターヴ・ルボンあるいはピエール・ドゥブレ・リッツェンの流れを汲む医療的心理学のつまらぬ懸案になってしまっていただろう。」p16(12)

「人間社会へのアプローチについては、ラカンはなお陰鬱だった。」p18(3)

「ラカンは、精神分析という着想を治療体系へと還元することにかなり早い段階で違和感を持っていたという点で、フロイトの後継者たちーメラニー・クラインからドナルド・ウィニコットその他諸々にいたるまでーとは異なっていたのである。」p18(6)

「フロイトは哲学を排除した。かれは不当にも哲学をパラノイア者になぞらえ、そして生物学、神話学、考古学に頼った。ラカンは別の道を行き、精神分析を哲学史のなかに再度組み込み、フロイトの体系のなかに哲学的思惟を再導入する。ついで、ラカンは精神分析から哲学の対蹠、『反哲学』を作り上げようと望む。」p18(9)

「ここでは、主人の言説が分析家の言説に対置されている。ここでのかれは、蒙昧主義あるいは反啓蒙主義の手先になって啓蒙主義に対抗する、というリスクを冒している。」p18(13)

「ショアー以降の世界は精神分析のもたらした革命のエッセンスを抑圧しており、ただ神話と言語に書き込まれた無意識の構造を考察しうる方法論だけがその代替わりを確実にしうる、と考えた。」p22(4)

「ラカンはクロード・レヴィ=ストロースの著作に依拠しつつ、フロイトとテオドール・W・アドルノの後をうけて、人間の昏迷の世界から引き上げることを可能にする思索の伝統へと自らを位置づけることに執着してきていた。」p22(6)

「その目的を遂行するのあたって理性や真理は無力だということをさらけ出してしまうリスクは承知のうえであった。最後に、かれは悲劇的なほどに、死と肉体の消滅という問いに絶えず向かい合っていた。」p22(9)

「かれはしばしばこう語った。『わたしは身体をつかってしゃべるし、それもそうと知らずにそうやっている。だからわたしはいつも自分が知っている以上のことをしゃべっている。」さらにこうも語っていた。『生命は死を待ちながら可能な限り休息えをとろうと考えている。生命は死ぬことしか考えていない。』」p22(12)

「そしてクラースと同様に、ラカンは晩年の最後の十年、絶対知という誘惑に身を任せ、結び目と編んだ紐のなかに、あるいは対当に、数学素のなかに、パロールが語ろうとはしないことを明らかにするような、また逆に無意識が語る術を知らないような何かを語ることを可能にするような、論理学的ートポロジー的なモデルを発見できると信じていた。」

「ラカンはつまるところ、フロイトの著作に哲学という武器を与え、生物学という掟から解き放ちつつも心霊主義に傾くことのない、よいう点で、フロイトの後継者たちのなかで唯一の人間だったのである。」p24(16)

「危うい魅力を放つ、この念入りに彫琢(ちょうたく)された散文が問いなおすのは、事物と表象との乖離である。現実は突発的な闖入者(ちんにゅうしゃ)と化し、諸々の公式とアラベスクのような文飾がそこを行き交う。ラカンによれば、あらゆる現実は客観的なやり方で、叙情を一切交えず語られるべきなのだ。」p28(8)

「なぜなら現実とはまずもって現実的なもの、つまり妄想なのだから。」p28(11)

「描くモデルはテーブルの上の卵だが、実際に描くのは屋根の上で翼を拡げている卵、そんな画家がするように、ラカンは現実を描く。かれは存在と事物、風景と言葉、身体と表情、鏡と子どもも結びつけるのだ。」p28(10)

「アンリ・ワロン、この共産主義の心理学者こそ、ラカンがこの用語を借用した当の本人である。」p29(13)

「ラカンはいつだって、元の資料はすぐに隠蔽してしまうタイプで、ここでも引用先の表記を省いている。・・こののちかれはワロンの名を抹消し、この用語の創始者と自称しつづけた。」p29(14)

「ラカンにインスピレーションを与えたのはワロンよりもむしろコジェーヴである。1930年代当時の現代思想は新たな革命とも言うべき役割を果たすようになった、という気持ちにさせられるのはコジェーヴによるところが大なのだ。それは『我思う』(デカルト)から『我欲望す』(フロイト、ヘーゲル)への移行である。」p30(2)

「言い換えれば、ラカンはコジェーヴに倣って(ならって)、他者や他性を欲望とする意識の対象と考えたのだった。」p30(5)

「ワロンは、鏡の前に置かれた子どもが『身体そのもの』と鏡に映った身体の像を次第に区別できるようになっていく、という経験を『鏡の実験』と名付けていた。かれによれば、この弁証法的な作業は、主体が自分自身の統一性を思い描く場となる想像的空間を象徴的に理解することで行なわれる。ワロンの見通しでは、鏡の実験は鏡像から想像へ、ついで想像から象徴への移行を特定するものである。」p30(7)

・ワロンからメラニー・クラインの引用
「ラカンはワロンの用語を再利用したが、それはーシュルレアリストの画家のようにー『鏡の実験』から『鏡像段階』へ仕立てなおすことだけを目的としている。これは二つの概念のまぜあわせである。メラニー・クライン的な意味での心的内部の態勢と、フロイト的な意味での段階(発達)の二つがそれだ。」p30(12)

「同様にラカンは、自然弁証法への参照をすべて消し去る。ラカンの見通しでは、鏡像段階は心的操作、つまり存在論的操作となり、これによって人間存在はおのれの同胞たちへ同一化を果たすのである。」p30(15)

・ラカン第二局所論;自我、エス、超自我
「1923年代以降、可能な選択肢は二つ。一方は、自我とエスから次第に差異化した結果の産物であり、現実の代表者であるかのように行動し、欲動を引き留める任を負っていると見なす(これはアメリカ学派の自我心理学である)。他方は逆に、自我の自律という考え方にはいっさい背を向けて、同一化という観点から自我の発生を研究する(フランス学派である)。」p31(3)

・発生学者ルイス・ボルクから借用
「鏡像段階の有効性は誕生後最初の数ヶ月の錐体路の解剖学的未完成さ、運動調節不全によって確認される未成熟誕生と関連づけられるべきである。」p31(8)

「このときからさらに長い年月をかけて、ラカンはこのプロセスを無意識という視点から描き出すようになっていき、結果として心理学的目的からはますます遠ざかっていく。そこからかれは、鏡像の世界すなわち自我の元初的なアイデンティティーの場はいかなる他性をも含まない、と主張するにいたる。」p31(10)

・鏡像段階の標準定義
「鏡像段階は一つのフェーズ、つまり構造としてまた別の状態へと引き継がれていく一状態であって、進化論的な語義としての段階ではない。」p31(14)

「フロイトは身体の想像的局所論ー幻想ーは現実の解剖学とも神経路ともけっして一致しないということを提示することで神経学から離れていった。ラカンもまた段階や実際の鏡像に依拠する必要のない鏡像段階を作り出したのである。」p31(16)

・人民戦線のもたらした革命期のラカン
「こんなときに、個人は現実に適応することもできれば現実を変えることもできる、という理念から身を引いたあたり、ラカンはまたしても同時代の理念に逆らって進んでいたようにも思われるのだ。また、心的同一化から人間の持つ認識が構成される形態を引き出していた。」p33(8)

「ラカンはフロイトの第二局所論の三つの審級を『人格の想像的拠点』と名付け、こうしてそこから第四の審級、『わたし』を取り出す。この『わたし』には明確な役割が割り当てられている。想像的な仕方で主体がおのれを主体として再認する場、がそれだ。」p34(1)

・1949年のラカン
「ラカンはもはや戦前と同じ立場を維持してはいないことになる。メラニー・クラインおよびクロード・レヴィ・ストロースの著作を論拠になったから、というだけではない。フェルディナント・ド・ソシュールの言語学が考慮されるようになったからだ。こうしてかれは、現象学に基づいた主体の実存的表象から、主体性の構造的概念へと移行したのである。」p34(5)

・主体の構造的概念
「主体は何にもまして言語活動のなかに、つまり主体の知らぬ間に主体を規定する象徴的機能のなかに放り込まれていることになる。加えて、ラカンはデカルト的コギトについての非常に刺激的な読解にも着手している。」p34(9)

・1946年コロックで発表した「心的因果性について」
「心的機構の器質力動的アプローチを作り上げるべく、神経学と精神医学の連携を提唱していたアンリ・エーに対してラカンは、フロイト的無意識のモデルに基づいた精神医学的知を再考すよう勧める。人間を一つの機械へ還元しようとする科学万能主義者に対抗して、かれはー当時の精神医学者の多数派と同様にー精神分析は精神医学に人間主義的次元を与えるものだ、という確信を共有していた。」p34(14)

・ラカン、デカルト的思惟へ
「ラカンはデカルト的思惟へと華々しく帰還することを強く賞賛したのである。だがそれはコギトの哲学への帰還ではない。狂気の因果性を思考しうる思惟への帰還である。」p35(4)

・1946年時点での鏡像段階
「1946年にデカルトを復権させたのち、かれは精神分析の経験は『コギトに由来する哲学いっさいと根本的に対立する』と強調し、デカルト主義を拒絶した。1966年ー『エクリ』の出版年ー・・精神分析は『コギトから直接に由来する哲学いっさいと対立する。』」p36(2)

・ラカン1936年から1949年までの進化
「最初の時期では、かれは生物学的な段階という概念から距離をとりつつ、想像的なものの現象学的理論と対象のシュルレアリスム的理論とを作り上げている。ついで、かれは狂気には固有の理論があること、それはコギトの外では考えられないことを示すためにデカルト的合理性を復権させる。最後に、かれは主体の理論を作りなおす。これはデカルト的コギトを拒絶することなく、コギトに由来する自我心理学の伝統を拒絶することなのである。」p36(7)

・無意識の主体
(無意識の)主体は、ラカンによれば、何よりもまず承認の欲望である欲望から活気づけられる。この欲望は大文字の他者の欲望のうちにその意味を見出す。なぜなら、その欲望が目指すのはまさにこの大文字の他者に承認されることだからである。根本的に疎外されたこの欲望は、個人の欲望ではなく、『その』分割された部分であり、個人はそれと一緒になろうとするが全体をなすことはできない。これが(無意識の)主体である。」はじめてのラカン精神分析、初心者と臨床家のために;アラン・ヴァニエ p29(6)

・言語と無意識
「メッセージに関する自らに考えに完全に背くことになるからで・・・メッセージというのは・・言語的なメッセージのこと・・最近いたるところで皆さんメッセージということを口になさいます。生物体の内部ではホルモンがメッセージです。飛行機を遠隔誘導するための、あるいは人工衛星から発生られる光線、これはまたメッセージです。しかし言語のおけるメッセージというのはこれらとは根本的に異なっています。」現代思考、臨時増刊総特集;ラカン p30上段(7)

・ラカン太字の他者
「メッセージ、ここで言うメッセージとは、あらゆる場合において他者からやって来ます。ここで私が意味したいのは『他者の場所から』やって来るということです。これは無論ありふれた他者、普通に書いた他者ではありません。だからこそ私は話題にしている他者を太字で書くのです。」p30上段(13)

・ラカンフロイトの無意識について
「フロイトの本、とりわけまともに無意識を取り扱っている本を開けば、必ずことばが問題にされている箇所に行きあたる。・・本ですから、常にことばは存在し・・印刷されたことばがたくさん存在し・・無意識の問題を扱う手掛かりを提供してくれる対象としてのことば・・ことばの肉体性、その物質的側面です。」p31下段(5)

フロイトの無意識はことばの断片
「フロイトの思索の多くの部分が、夢に現れる洒落や言いまちがい・・地口(フランス語calembourや同音異義、あるいはさらにひとつの単語が諸部分に分割されそしてその分割の結果それぞれの部分が新しい意味を獲得すること、こうしたことに関するものでした。」 p31下段(12)

・フロイト精神分析の方法
「一時間の面接や毎日の面接などは彼なりの方法で見出したのであって、『まったく異なった気質の』他の分析家は自分とは異なったスタイルを見出すだろうと述べていた。フロイトが強調したのは、あらゆる技法的な規則は実際にはただ一つの『基本的な規則』に帰着するということであった。」はじめてのラカン精神分析、初心者と臨床家のために;アラン・ヴァニエ p56(8)

・フロイト精神分析の規則
「面接の中では分析主体は頭に浮かんだことを何も省かずにすべて言うということであった。『基本的な規則』の補足あるいは裏面には『平等に漂う注意』が定着される。分析家がこの構えを取れるようになるのは、彼自身が分析を受けた結果である。平等に注意を漂わせることとは、分析家が分析主体の発言のいかなる部分も特別扱いせず、普通であれば注意が向く事柄(例えば、分析の中での関心事)よって方向づけられないことである。」p56(11)

・無意識の構造
「『無意識は言語のように構造化されている』という第一の根本的原則を根拠づけることが・・この定式を次のように言い直して提案する・・『無意識は言語のように構造化された知である』、またはより簡単に、『構造化された知』と。」
ラカン理論;J=D・ナシオ p28(12)

・無意識の第二根拠原則;享楽
「『性的関係は存在しない』といい表され・・ラカンの享楽という概念の意味をよく理解し、・・もう一度症状というガイドラインをたどり直し、フロイトが切り開いた道に立ち戻らなねばならない・・」p29(5)

・症状は苦痛であると同時に安らぎ
「ディスクールのなかに現れる不調和という経験的側面をあげ、また、患者の側から、さらには分析家の側からすらも想定をもたらす記号という性格を指摘し、・・一切の目的意識を越えたところで不意を襲い、強制し、反復するシニフィアンという性格を考えた・・症状のもっとも明白な側面、苦しんでいる人にとって一番身にしみる側面、すなわち苦しんでいるという事実そのもの、心的障害がひき起こす苦痛の感情そのものには触れることなくここまできた。」p29(8)

・症状は苦痛をともなう徴候
「症状は、・・嫌悪感を感じながらもなしとげてしまうことになる一見不要な行為、・・自我にとって症状とは本質的にシニフィアンに苦しむことを意味するのだとしても、逆に無意識にとっては充足を享受することを意味するもの。・・充足の享受です。なぜなら症状とは痛みであると同時に安らぎなのであり、自我にとっては苦痛であっても無意識にとっては安らぎである。」p29(13)

「一体どうしたら、症状が静けさを与え解放を行うものであるなどと主張できるのか・・そして症状は、われわれをどんな圧迫から解放するのでしょうか。・・享楽の主要な形態の一つと見なしているのは、まさに症状の、この解放し鎮める作用のことである。」p30(5)

・ラカン享楽とは
「ラカンが提唱する享楽の理論は三種類の享楽に分かれる複雑な構成をもっています。・・享楽(悦楽)という言葉は・・私たちのなかに自然に身体的官能の観念を呼び起こす・・精神分析の語彙に属す言葉はいつまでもその普通の意味に引きずられるので、理論家の整理の仕事はしばしば、精神分析における意味を普通使われる意味から解放することに尽きてしまう。」p30(10)

・享楽はオルガズムではない
「『享楽』という言葉をオルガズムという観念からはっきりと区別することによって、まさにそのような仕事をわれわれは行うべきなのです。・・『享受』とか『享楽』という言葉を聞くたびに、オルガズム的快楽とのつながりを忘れていく・・。」p30(17)

・自己の追放と異なるもの
「分析の役目は・・無意識の活動を活発に保つこと・・精神分析家は、シニフィアンの形成をいちいちの行為ごとに外在化することを自分の目標とするだけでは十分ではなく、被分析者のもっと内奥にある諸審級が外在化されやすくしなければなりません。・・分析は主体が自分自身に対して違和感を抱くようになるような諸条件を作り出すのです。」p106(6)

・精神分析が作り出すもの
「根源的な分離、主体の心的現実を再構成してくれる本質的な喪失、追放と呼んでいい喪失なのだ・・患者のなかに変容が起こるよう仕向けたり自らの目的を変化や治癒に置くのではなく、精神分析が目指すのは、主体がまるでよそから来たかのように、自分自身に対して異なるものとして、自らの存在のもっとも内奥にあるものに出会うための諸条件を作り出すことなのです。」p106(9)

・フロイトとアフォリズム
「私たち誰ものなかにある異なるものとの出会い、私たちの存在のもっとも非人称的な審級とのこの出会いを、・・『エスのあったところに自我が生じなければならない』にならって、・・『自我』を『主体』に、『エス』を『私たちの存在のもっとも内奥にありながらもっとも異なるもの』という表現に置き換えるなら、・・『精神分析の目標は、主体を導いて見知らぬ非人称的なエスに出会わせることであるが、それは内省によって私たちの内部で行われるのではなく、幻覚的な知覚を通してであれ、それは私たちの外部で行われるのである』」p106(15)

・分析の治療の本質
「被分析者の治癒を、治療の二次的効果、付属的な利益、臨床家の意志とは無関係に現れる副現象のようなもの。」p107(10)

・本質的な治療とは
「治癒の到来は、技法の正しい使い方によるのではなく、臨床家が治癒をどう捉え、どのようなものとして期待しているのかを認めなければなりません。」p107(13)

 

 

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tak

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