女性のための哲学

あなたのこころにコードを合わせ未来のあなたを見つけていく|女性のための実践的哲学で心の疲れを取る

投稿日:2018年4月3日 更新日:

未来のあなたを見てみよう。いますぐに未来のかたちを見つけるにはこころのコードを一致させる

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あなたは自分のこころに触れるという実感はありますか?
あなたが生きていくには、こころをとらえていく経路らしき方向づけられた幻影のような足元を見つけていくのです。
幻影?
これは、まぼろしとかげ。
未来はあなたから明確に見えているのではなく、未来といわれそれによってなるほどと理解できるぐらいの想像上での確信ももてるはずもありません。
こころという表現は、このエクリチュール(書き言葉)ではとても重要なキーワードとなっていき、こころというのは未来と同じく不確かなものとしています。

つまり、これらは、不確かなものとして、あなたの脳はある現象を生んでしまっています。
それは、脳のなかの非運動である幻影の作用、連合するというもの。
連合という表現もまた幻影です。
これらには共通点があって、脳のなかの作用をエクリチュールする前に、あなたの脳でもういまからその現象を起こしてみてみます。

こころ、未来、連合。
表現としてはまったく別のもののように見えるでしょうけど、これらはどれも意味不明な不確かなものとして同化されていくのです。
連合は脳のなかの非運動という作用で、非運動ですので、運動に相当しないという現象を示している。運動のようで運動ではないという。これは、自然界は運動の原理が階層のように差異を生み、それが時間という連続性を失ってこそ、初めて真実を感じたといえるものを喪失している現象です。

自然界は運動の反復で、非運動は自然に反しているのに、この世では採用されているのです。
この世ではというところ。この世とは、この世界という意味またはこの世の中という意味になり、その世界はほんとうにある世界なのかどうかというテーゼ(本質的な疑念、疑問)までいま、発生しています。
これらの展開は、実践的哲学といって、西洋哲学をつうじて、女性が自分のこころに気づき、未来を先取りし、未来を想定して、幸福になる実践的な脳のなかの神経系の運動であります。

こうしたエクリチュールのなかで、神経系の運動によって自然現象から、無意識的にテーゼが生まれ、そこからこころからどこかに経由したコードで表現されていくのです。
見えないものに対して、あなたは他者とつながり合いをはく奪したなら生きていくのが困難というところからの恐さをもっており、見えないものを見るというゆがみが発生します。

このゆがみが、幻影というものであり、かたちがないものであるのにかたちを脳の一部の細胞の連合によってまとめています。
こころがどこにあるのかよくわからないけれど、こころは大切なものであるのはよくわかる。
未来は世界の所有ではなく、おそらく、あなた個人に所有するものであるというのもわかりそうな気がする。
これらは、ないものをあるものとして、脳はゆがみをもったままに保存しようとする幻影を作るのです。
この連合は、非運動であります。

非運動はどこで行なわれるのかというと、世界という虚像のなかなのです。
世界は自然に属するのではなく、世界は人間の認識のうえでの幻影のなかの枠組みを作っています。
あなたは他者は発するパロール(話し言葉)を聞いた経験から、世界という超越されている大きな範囲を統一するような言語表現を何度も聞いたことがあります。

『あれは、◯◯さんの世界観だ』などと、言語表現すれば、そのひとしか立ち入れないところと解釈してきていますが、そのときに世界という想像にはどちらかというと、あなた自身がいつも抱えている自己のこころの投影線の限界点を超えているという憧れをもって理解しています。
そのような憧れは、脳の一部でますます過剰に広がっていき、自己の扱える領域をはるかに超えたところでまた違う居場所を作りはじめます。

その世界で行なわれる生きることと関連のないものの集まりが集会のように行なわれ、それをとらえる脳のなかは非運動という状態になっています。
この非運動はあなたには存在感としてとらえることができています。
生というのは、理論と実践は同時進行で、目的をもち、結果を求めて、行動を選ぶことはありえないのですが、あなたが生きているいまの現実という世界には存在が生まれています。

もしあなたの生命が存在感を必要としているのなら、体位を変換するような動作という運動反応は発達しませんでした。
それなのに、この世界に生きている限り、あなたが何者であって、どんなところに属しているのかという目に見えるもの、他者に説明がつくような立場、それを言語表現できるような職業だったり、業界だったり、そういった存在感というものを欲して生きています。

ここで、また出会うのが、幻影という地点であります。
また出てきたのが、幻影という妄想(もうそう)で、ゆがみをもったまま、まっすぐの線(ライン)をもたされて、あなたのなかで実感をもつのです。

幻影は、世界のなかでしか生息(せいそく)できない非運動の固定された現実で、そこに真実はありません。
あなたが求めているのは、あなたが生きていくうえでの真実という着地点であり、それが欲しいがあまりに脳は先行して理解しようとする焦りや不安から、ゆがみに対して無意識的な反応となっていくテーゼが生まれてこないまま生きてきたのです。
その底辺にある正規の機能されたひとの原則としての運動は自然界と同じ運動を作用させながら、ゆがみのあるものには自然に差異が生まれ、脳は無意識的に気づきを生んでくれます。

これは脳のなかのあらゆる細胞と細胞とを結びつける中枢神経(ちゅうすうしんけい)という経路はサブシステムにまわり、そこは死と同然の自律性のより、主導されるのは、からだとこころの表層に広がっている毛細血管などの末梢神経がメインシステムになるという関係性が、この世を脱構築して、世界をあなたからなくしてくれます。

自然界のもゆがみというものはあるのですが、それは運動をともなっているため、ゆがみのなかでもそれらは適切な関係性を交差させながら、実態を反復しています。これは、脳の認識とはまったく違っている構造をもっているのです。
これまでにあげた幻影は、ゆがみをまっすぐに見ようとする人工的なかかわりがそこに入っています。
脳の神経系の出力には、運動と非運動が行なわれていて、自然と同化できるところにはゆがみという非対称なる差異がどこまでも続いていくのではなく、すぐに終わっていくぐらいの運動の強度で、その運動の頻度は心臓の拍動と同じく一度たりとも同じリズムで発することはありません。

追いかけても、追いかけても、どこに向かっていくのではなく、運動の感覚を差異を維持しながらも、運動と運動が追いかけていくような感覚です。
これが本質的なゆがみという非対称の自然界が物質として生命活動のために保存している形状であります。
幻影には、まっすぐにしか見えなく、とてもきれいな形状をしているような風貌(ふうぼう)であなたに自己表現してきていますが、それらは人工的な論理性による科学的表現であるので、残念なことにはなりますが、人間はそれらの幻影に騙され(だまされ)、自分でそれがほんとうかどうかの真偽という見方が行なえません。

それらは、そのうち、脳の非運動であるところに強度の高いトーンを維持しながら、ある経路を作るのです。
それが、非運動におけるコード化というものであります。

女性の脳をごまかして、ゆがみをまっすぐにする非運動におけるコード化

女性脳変える 女性感性脳

あなたが生きている世界には、徐々に段階的に価値基準の変容が進行しており、そのやりとりのなかで、全体性という大衆にならざるを得ないモデルの緊迫感と個人という社会から見棄てることをおそれた全体性の痕跡としての個人の憂鬱な負の感覚が変化してきています。
これらはあなたの内面的な空間で起こる内的因子もあれば、世界、世間、全体性を主張してやまないマスメディアなどの外的因子からもかかわりあってきています。

現在に生きるあなたには二つのコード化された領域があって、それがユートピア的で発展的な楽天性と心理学的発達理論からの個の喪失による絶望感のコードの化合物であるコード化からきているのです。
コード化というのは、脳の非運動という意識された認識から全体性を抱えたままの体系化(古代的エクリチュールではイデオロギーといいます)で、感覚が神経系のなかで運動されていないことから、このコード化された一連の基準はこのコード化されたライン以外はまったく見えないという現象を生みます。

この特定の現象を世間的なパロール(話し言葉)では、世代間の格差などと表記され、年齢という超えることがどうしてもできない不可能なもの、それだけど同時性として同じ世界の空間には共存し、それが説明不可能である絶望感もそこには秘めているのです。
しかし、これはそのままにされたエクリチュールのなかで絶望感としている不可能なものというのは、あなたのなかでも整合性は適切に取れています。

年齢が違うと価値観も違っているという物事への見方として、これ以上の思考レベルでの解体不可能であるという理解にも発展しているのです。

現在に生きるあなたには二つのコード化された領域があって、それがユートピア的で発展的な楽天性と心理学的発達理論からの個の喪失による絶望感のコードの化合物であるコード化からきているのです。

このテーゼは、女性であるあなたの脳のなかで非運動という感覚神経系が作動しない領域を解体不可能だと思っているところを可能だと感じ取るために重要な契機(けいき)となっています。
前者に挙げているエクリチュールにあるのは、ユートピア的で発展的な楽天性というのは、どのようなとらえることを示しているのでしょうか。

これはあなたが生きていくためには哲学的な生の衝動を活かした正と負の作用ともいえず、反作用ともいえない爆発的な生そのものの運動への憧れと現代科学によるマスメディアの発展とそれによる情報過多への不安の搾取(さくしゅ)です。
人間というものは、豊かになって、幸せに暮らしたい、悩みなく、自分に自信が満ちたりたいと欲しています。
これをあなたのいまのままのとらえ方でいくと、前述した解体不可能という安堵感の転覆(てんぷく)の惑い(まどい)に入りこんでしまいます。

それは迷いの非運動である迷走という反応で、どうしようもない地点にさしかかるところでの安堵感として非運動をそのまま固定するという欲求の転覆であります。
つまり、満ちたりたいと欲しているのは、社会に対抗する個体からの逃亡された真の欲求の塊で、欲しているのはあなたの内面からではなく、あなたからはく離された他者を介している大きな存在としての他者を経由しているあなたなのであり、つまりそれはあなたの自己が欲しているのではないのです。

ユートピア的で発展的な楽天性はあなたの日常には、すでに到達して、手に入れています。
科学的な電気機器(生活を便利にする家電製品など)、通信機器(パソコン、スマホ)、自己と他者の惑いを消失させる情報の空間(ネット、SNSなど)はあなたが待ち望んだ理想的な日常というような思惟にされているのですが、これはすべて幻影というもので、まるであなたの内面が欲しているような想定は、その他大勢の強い自己喪失を関連されている他者がそこにいるために、これこそ解体不可能が成立してしまっています。

ユートピア的で発展的であるのは超越している理想的な日常といえます。科学的な数式がプログラムレベルで容易にできるようになってきたので、日常生活にかかわる道具にもなり、それらは大量生産されてきています。
ユートピア的で発展的であるべき地点というのは、手に入れてはいけない超越された理想的なものであるところでとめていたのなら、それらは均衡が取れ、ゆがみが人工的に作られたとしても、それなりにあなたと社会という全体性と個人とを二面性によって対抗させながらも、自己内に溜まってきていた抑圧も解放され、それによって生きていくことができました。
それがプログラムの発展からユートピア的で発展的な理想的な日常が道具によって手に入れることが可能となってしまっているのが、超越であるべきかたちのない幻影にかたちが現れ、それがコンパクトな道具として、手に持てるという機能、それと日常を送る生活空間である自宅にそびえている家電製品などのリモコンで人間の手のわずらわしさを解消されてしまっている現実で二面性が奪われていくのです。

これらの諸要素をフランスの哲学者である精神科医のフーコーのエクリチュールを引用し、パサージュしていきます。

*フーコーの最初の問題
「フーコーは患者をその連想から分析するという新しい技法を学びながらも、『わたしは患者の心の中で何が起きているかということよりも、医者と患者の間で何が起きているかということに強い関心をもった』・・精神病院という現場においてフーコーが直面していたのは、心理学の技術の問題であるよりも、精神疾患の治療という実践がもつ意味だった・・そしてフーコーはこうした立場から、心理学という学問の奇妙さに直面することになった・・」フーコーの思想の考古学;著者中山元ー新曜社 p12(11)

*研修医フーコーの患者エピソード
「研修医のフーコーは、病院に入院していたほぼ同年代の患者と親しくなった・・ロジェという名前のこの患者は、自己破壊的な傾向があるために入院させられていた・・本人は一生の間、病院暮らしをしなければならないのではないかという恐怖に苦悶(くもん)していたという・・ふだんはものわかりのよい知的な青年であるが、荒れ始めると手のつけようがなく、薬物治療も効果がなかったという・・ついに病院側は、なんらかの抜本的な治療をしなければ、この患者は自殺すると懸念し始めた・・そこでこの若者のロボトミー手術が行なわれたのである・・フーコーは『いくら時間がたっても、あの苦悶に満ちた顔を忘れることはできない』と語っている・・』p13(1)

「フーコーはこのエピソードを、精神科医にならなかった理由として語っているのだが、『精神疾患とパーソナリテイ』の最後に掲載された精神医学年表には、1936年の項目として、『エガス・モーニス、初めてのロボトミーを施行』と記している・・このロボトミーという外科手術は、当時の精神医学と心理学が直面していた問題を象徴的に示すものである・・」

「それは精神の疾患の問題が、精神の次元で問題にされるのではなく、器質的な問題として『解決』されてしまうことである・・たしかにこの青年はロボトミーの手術によって自殺する心配はなくなり、この青年の疾患は『解決』されたかもしれない・・しかしこの解決策は、精神疾患に対する真の解決策ではないのは明らかだろう・・精神の問題は身体的な治療では、真の意味では解決できないのである・・」

「フーコーはこの問題の根底にあるのは、心の疾患と身体の疾患の質的な違いが、十分に考察されていないために生まれた混迷だと考えていた・・心と身体の問題は、ルネ・デカルト以来の難問であり、フーコーを魅惑した問題でもあるが、フーコーが携わっていた精神病院の実務という場において、この難問は心理学の問題と、精神医学的な実践の問題という二つの側面で露呈(ろてい)していた・・」

*心理学の疑似ー科学性
「心理学については、当時のフランス心理学界は、疑似ー科学性を特徴としていた・・『測定し、数え、計算する』科学的な心理学が真の心理学であり、『思考し、反省し、次第に哲学へと目覚める』哲学的な心理学は、偽りの心理学という区別には、どのような根拠があるのだろうか・・フーコーは・・心理学が『50年前まで』は哲学の一部門であったことを指摘しながら、人間の心を対象とする学問が、人間に対する省察である哲学と分離してしまっていることに疑念を表明する・・心理学は哲学であるべきではないのか・・心理学が科学であると自称することに間違いはないのか・・」

「フーコーは、生物学の専門家が、本物の生物学の存在を認めたりはしないことを指摘しながら、専門の心理学者が、本物の心理学と、本物でない心理学が併存しうると考えていることに、『混乱と根本的な懐疑』みている・・フーコーはこの混乱のうちに、心理学という学問の出生の謎がひそんでいるのではないかと考えるようになるのである・・」

「フーコーはやがて、当時のフランスの『科学的な』心理学にはある方法論的な難点があり、そのために、科学としては成立していないと考えるようになる・・その方法論的な難点とは、心の病と身体の病という異質な現象に、根拠なしに同じカテゴリーを使っていたことだった・・当時の精神医学は、この二つの医学を統一する病理学が存在するという前提に立っていたのである・・」

*フーコーは本質的なコード化に対し、テーゼを生み出した

コード化されているのは、あなたの自力の省みるという実践でも、ほとんどそこに気づくところまで到達できるのはあり得ません。仏教などの信仰が坐禅を組み、自己内の雑念に意識を向けて、揺れ動くような感覚が内面的に発したのなら、それをからだを通じて、その揺れ動く感覚を抑制するという修行(行)は、人間の内面的な存在は高めてくれるのですが、それが特殊な信仰の世界のなかでの事象に終わっていきます。これが世界のなかでのコード化といえます。信仰には信仰のコード化があるというのは、あなたにもなんとなくその現象というのがわかることもあるとは思います。コード化の特徴は、そのコード化が特有の世界でしか生かされないという性質があるため、世界が時間経過とともに特定のコード化が新しいコード化の背後に回ったなら、そのコード化された価値基準は使用不可能となります。若い人とそうでない世代の人との相違からの現象を見るとよくそれが反映されています。若い人が求めるファッションとそうでない世代が求めるファッションは全然違うのもコード化による現象であり、かりに父親の服を息子が借りて着たとしたなら、息子はまったく似合わないでしょう。この現象は、ファッションのセンスの相違だけの要素で似合わないのではなく、父親の世代のファッションのコードと息子のファッションのコードの世界のフォーマットが違っているから合わないと思ってしまうこととなります。ファッションのデザインの相違が、似合わないという現象を作っているのではないということが、世界のコードがどれだけあなたが生きてこの現実に人間同士の関係において両者のあいだに切断(分断)しているのかになり、それによって人間同士の関係性のつながりはとても希薄になって、いまではそれが生産性を求めて利潤を得なければならない企業活動にも支障をきたしているのです。お盆やお彼岸には仏壇がある家では、お寺からお坊さんがきてもらうという日本の慣習は、現状の戦後生まれの世代には継承されましたが、それ以後はあまり残っていく気配がなく、お寺という文化はなくなるだろうと推測されます。これは信仰という名目で先祖を敬うことで精神性に安定を持ち込めていたのなら、コード化というものにはならず、ひとが求める欲求に運動が起きていたのなら、若い世代にも積極的にみずからそれをやりたいという気持ちになっていたはずであります。でも、それがほぼありえなくなっているのは、慣習であるからこうしなければならないよと感覚や感性ではなく、コード化という言語意味生成による特殊な土台にしていったから、若い世代のコード化には当てはまらなくなっていったのです。そうなっていった分野、業界は、そのうち特有の人間の対象にするしかなく、マーケット(市場)という見方からでは衰退していきます。ということは、お寺やお坊さんはいつかこの国土からは消えてなくなっていくとされるのです。もし、家がお寺だから必然的に継がなくてはいけないという発想でそうするのなら、マーケットはお寺を消失させますので、その分野を選んではいけないという選択が生まれます。

そしてこのコード化は、脳の中脳や小脳、脳幹という生物的構造の神経系の運動を経由しないネットワークで固定化された認識であるため、脳の記憶を担当する細胞群はその記憶を消さないで保存します。つまりこのコード化された土台であるフォーマットは、脳のなかの情報量としては膨大となり、その処理のためにエネルギーを大量に使います。どのように使うのかというと、コード化されたフォーマットを残すために使われ、ひとが生きるために未来を先取りする感性である中脳や小脳の運動は抑制されて、認識ばかりが出てしまって浪費しかなくなっていくのです。これは、言語意味生成では、老化、老年、年を経るという負の社会性につながっています。まるで自然にそうなったかのようにして、コード化は脳の一部の非運動で連合されていき、そのままの設定では生物的構造の機能に反するため、無意識の神経系の作動の哲学から意識の神経系の作動の非哲学に設定を切り替えて、生き方はそのコード化に即したものになっていきます。

どれだけ念仏を唱えても、このコード化には気づけない。
どれだけ勉強をしても、どんな学校を出てもこのコード化には気づけない。
婚姻をしてもしなくても、このコード化には気づけない。
この例を挙げたのは、なぜだかわかりますか?

この例はすべて特有のコード化そのものであるため、からだが欲しているのではなく、慣習として特有のコード化となっていて、そのなかに入っている限りそこに立っていると、現実といまが時間的観念が結束しているため、どこから見ようとしてもコード化された思惟の規定は否定するわけにはいきません。なぜならば、このコード化には、みずからが意識的に意思をともなって設定したことになっているからです。幻影のうちに現実化された自己が架空の精神活動で設定していたというこのコード化は、深いところで伝統的な家族構成を重んじる人間を心理学で認識することから起源が想定されています。コード化は、これを抱えると老化していき、社会性と同じく歴史的観念で繁栄と衰退の理論化に巻き込まれていき、これは脳の中脳、小脳が運動を起こしていないという実態の神経系の運動が適切でないからという事実もふまえ、されにそれ以上にコード化に縛られている内部運動に気づけないところからもきています。

あなたはなんらかのコード化を抱えているのです。
そのコード化はいつか社会性が求める時代には合わなくなってくるため、会社に勤めていると、若い新入社員とは価値基準が合わなくなっていき、若い社員からは疎まれていくでしょう。これはあなたみずからはそれがわからないため、自分のコード化と若い人のコード化が違っているという構造にも目を向けられないのは必然性であります。

女性であるあなたには、AI化される(これもコード化です!)会社勤めよりも、みずから事業を立ち上げていく選択を推奨します。コード化に気づくには、実践的哲学を導入していき、思考が固定されている起源があればそこに運動を入れていけばいいのですが、コード化は前述したように、フォーマットを維持するための大量のエネルギーを浪費し、からだもこころも衰退します。

よって、女性が美しくいたいという美的欲求の方向性もコード化というのはまったく違った生き方で、あなたが求めていない世界に向かってしまっているのです。コード化は脳の無意識的な運動を経由しないので、脳のなかの情報が新しくなりにくく、過去のコード化に依存していく。そして、未来を先取りしなければいけない段階なのに、思考をしようとするとすでに構成されているコード化に対応したコード化に近づいていく。これが切っても切れないところから、多くのひとは一回知ってしまっているコード化に意識が設定されてしまっています。このような現象をどうやってあなたが活かすのかどうかが欲しくなってきたように思います。このコード化を追求していくと、未来についてもわかってくるだろうし、コード化にあなたが日常的に支配されているということもわかってくるだろうと予測できます。では、コード化で考えるべきことは何かについてを考えていきます。

*今すぐ成果を挙げるものと長い目で見るものとにコード化を分ける

マーケット(市場)という見方でコード化を観察していきますと、二極化している現状があると考えられます。それは、若い世代と高度成長期に現役世代とそのときに生まれている子どもたちの世代との隔離(かくり)。若い世代には、マーケティングが十分にされて、デジタルコンテンツ(スマホ、SNS)によるキャラクター作りで特定の対象を獲得するというもの。一方、高度成長期に関わる世代には大量生産、消費の影響のあった経済状況で、そこを対象にするには、どうしてもマーケットでは過去に回帰するような見方となってしまうようです。マーケットというのは生ものですので、すぐに売れなければ、そしてすぐに生産しなければ企業活動が維持されるぐらい余裕がありませんので、このようになってしまうのです。しかし、この方法はどちらの対象を扱うにしても、特有のコード化に消費者を支配していくことになっていく。これは若い世代と高度成長期の世代を分断して、マーケットに偽りの個性を要することに。若い世代にはデジタルコンテンツを所有するというコード化ができていき、高度成長期の世代にはデジタルコンテンツに対するコンプレックスができ、混線してしまう。これは、コード化同士はつながり合わない作りであるので、若い世代はそのようなデジタルコンテンツは生まれたときからありましたので、そこに差異はなく、そのまま浸透する。高度成長期の世代はそれがない時期を知っているため、強烈な差異が生まれており、気になって仕方がない。現状では、多くのひとがスマホを持ち始めていますが、高度成長期の世代はコード化がそもそも違っているので、本当はまったく欲していません。でもそれらを強制的に持たされてる。これによって、コード化同士の対立が生まれている。本質的な欲求はまったく運動が起きていない無動状態。意味はわかるけど、そこに価値はなく、周囲がそうしているからやらないといけないと思ってやっている。
ここで、コード化の特徴をエクリチュールしておきますと、コード化には対立するほどの精力はないということです。

*コード化の特徴

・コード化は特有の対象にしか生かされない。コードを持たないものに神経系は反応しない。

・コード化は資本主義の原理に反しており、コード化は記憶から消えないため、資本主義が終焉する運命をたどる。

あなたは、この世に生まれ、社会が規定したルール(規則)に従い、生きてきました。生きることへの、本質的なテーゼ(命題)が一度も与えられずに、ここまで生きてきて、生きることでの手がかりがないままに生きてこれたのは、社会が与えたコード化からです。

コード化があることで、ひとつの価値基準が支柱となり、それがひとの生きることの意思を含ませないで済むようにできてきたのです。複雑に見ると、どこまででもカオスになるだろうし、ひとつに絞るとあなたが生きているような生を受動態にして社会に属して生きる選択がある。けっしてそれが自分を内面的な空白にみずから生から発するビジョンを描けるのではなく、どこかでいつも不安であり、これからどうなるのかわからない。そういった不快な感覚はコード化が他者全員と一致するひとつの価値基準にできてきたために、今までは生きてこれました。コード化は脳の中脳から脳幹という感覚、感性、感情の運動は生み出さない経路を通り、そこは神経系の運動や発達はないのです。コード化は最初から一ではなく多数の他者が全体というものをそのままのみこんでいる集まり。コード化はどんどん増えていくと、未来にはつながり合わず、すべては過去に作られたコード化であります。つまり、それらは未来には照合されない価値基準ばかりだから、求めても求めても過去に戻される。過去のコード化はいまはもちろん、未来には向かっていかないので、あなたはこれから先、自己の内面を更新できないことが真の苦しみとなってしまうのです。

*若い世代と中年世代の隔離の増大

若い世代のコード化と中年世代のコード化は相違があります。
大企業になるほど、この世代の人数がかなり多いため、コード化はますます人間と人間の距離を広げます。簡単に表現しますと、仕事がしにくくなるのです。若い世代は先輩という制約は望んでいないというのが認識上でのコード化。中年世代は先輩に育てられ、その先輩は尊敬できるひともいた。先輩を頼りにして、そこから見習おうとしてきた中年世代の経験。これらは経験主義というコード化になっているので、コード化が増えていき、マーケティングによってより繊細な対象を作りだし、コード化の数量が増えてしまっている。若い世代であってもそれぞれのコード化が違っているので、中年世代から見ると、彼らの扱いがまったくわからないのです。これでは仕事での関係性がうまくいくはずがなく、中年世代は若い世代にないコード化で接してくるので、わずらわしいと思ってしまって仕事をすぐに辞めてしまう。中年世代は将来を考えたらひとつの仕事を続けた方がいいというコード化が基準で若い世代を見ていますので、どうしても理解できないから、若い世代を否定的に見ることしかできない。これが現状であるのであります。つまり、このような現象によって、生産性を求めることを第一にしている資本主義が継続することが難しくなってきます。すると、後継者はいなくなり、大企業は雇用を確保できなくなり、規模は小さくするしかできなくなるのですが、労働法というものを国家は定めているので、簡単には人間を解雇することができない。すると、生産性は小さくなってきているのに、雇用は減らせない。これはそもそもの組織運営の形式自体を見直さないといけないのに、人が辞めていき、中年世代ばかりが残ってしまっているので、いつも過去に回帰するコード化が興奮してしまい、話が前進していかなくなるのです。

*資本主義はコード化を外し、世界基準にするもの

あなたが生きているこの世界は、資本主義システムという形式をとり、生産性と利潤によって、それでさらに投資することで世界に向かっていく規模が世界基準になっていくというものです。
あなたが生きている日本という国土は、鎖国を長いあいだ維持してきた風土から、国内生産でなんとかしようと考えてしまっている。資本主義はコード化を作るべきではなく、世界史という新しい価値基準を生み出すことを続けていくのが資本主義の形式だと、『資本論』をエクリチュールしたマルクスはそういっている。日本にはそういった風土がなかなか発達していません。自分たちだけでやっていけてたらいいの、と思いながら、ほそぼそとビジネスをしている人が多く存在している。これが資本主義の原理を乱し、ルール(規則)を設定するところからこれがまたコード化になっていってしまう。あなたが生きているこの国土では、情報の開示がかなり低く、それでもそこに懐疑する直観が効いてこないのが、日本人の風土に支配されているコード化なのです。
資本主義はキリスト教のプロテスタントが強く作用していた地域から発達したとされていますが、プロテスタントの教義は禁欲主義。あらゆることを抑制するところに美学があるとされる。キリスト教の教えにより、人間は自然と接する位置で生き、物質界と接する神という精神の領域の反する存在であるという見方がある。ようは、人間は汚れているため、欲求を抑制しなければならないと強く信仰するプロテスタントから資本主義は発達したのです。
これがコード化とどういった関連があるのでしょうか?
そもそもの資本主義システムでの根源でのコード化は存在していません。
資本主義は利潤をかけ、次なる対象が利益を上げていくというもので、先進国と後進国という二面性をかならず作ります。
あなたが生きている日本は、先進国に匹敵する国家ですので、製品の多くは中国、ベトナム、バングラデシュなどの後進国とされる地域で作られている。これは利潤を得るためには、人間の価値が低いとされる国家で作ることになるしかない。利潤を上げなければ、資本主義はなりたっていかないので、仕方のないものであるのでありますが、先進国になってしまった日本はどうすればいいのか。それは、コード化がある限り、狭い範囲での価値基準になってしまう。それでは世界史を作り出すために、資本主義はあるのだから、どんどん利潤は減っていき、循環しなくなっていく。この現象にシンドロームとして不快な感覚を持ちながら症状を抱え、いまを続けようとするあなたがいる。いや、あなた以外もそうだし、あなたの周囲の人間たちはみんなそうなのです。そういうひとたちと付き合っていると同じ日本の風土に支配されている者同士になると、コード化はさらに強くなり、コード化同士の連合作用が起きてしまう。利潤とは、目先の利潤を求めるのではなく、世界史を作るように、世界につながっていくビジョンを持つことが資本主義の原理であります。

*プロテスタントは信仰を世界に広めるために資本主義を作った

プロテスタントはキリスト教のなかでも、禁欲主義の強い一派です。そして、お金が足りないときに、お金を貸して利息を取ることを禁じていました。それなのに利潤を取る目的で発展していく資本主義を作ったのは、推測すると、プロテスタントの信仰を世界に広めるためだったのではないのかと思われる。資本主義という社会的制度を活かして、プロテスタントを広めようとしたことになる。広めるために利潤を取るという大幅な価値基準の変容は、かなりのものであり、資本主義の根源になす偽善は利潤を取り、先進国を作り、後進国よりも上位に立つこと。広がっていくには、レトリック(修辞法)というそんな感じというイメージを言語で作らないといけない。そのために、資本主義は世界に広めていくには、下位よりも上位に入るという目標をかかげる。これが人びとを魅了してしまっていく。あなたもその渦のなかに巻き込まれてしまっています。ひとよりも上位に入って嫌な気にはならないだろうし、そうあれば優越感に浸れてしまう甘い誘惑にいつも求めている。これはプロテスタントが措置した形式だったのではないのかと、大詰めでの帰結にもっていくことができるのです。そのためには一切のコード化というフォーマットは必要ありません。世界史を作り出す歴史のためだけに資本主義の根源があるとするなら、あなたが真面目に労働をしていることなど、なにも未来を先取りできるものではありませんし、いますぐやめても資本主義システムにとってなんの影響もない、影響があるとされるのは、あなたの生活のためだけなのであります。資本主義にこれからも侵食したままでいるのなら、一つの選択肢しかない。それは、世界史を作るように生きなければならないのです。世界史を作り出すには、大きな枠組みで、大胆不敵にも、とてつもない差別化による概念がなければいけません。そうようなことができるのなら、資本主義は価値があるものだし、それをするためには、あなたが抱えているコード化があると、そのような行動や思惟にはぜったいたどり着くことはない。コード化というのは先進国のためにあるのではなく、後進国が貧困に耐えるために使用される以外に機能的ではない。これをあなたは理解しなければ、どうしようもなく、いまのままではコード化があなたの生を支配するだからこの先は貧困に耐えるという生き方になってしまうのです。コード化は前述したように、過去に作られた狭義での認識だから、いつも過去に戻されているのである。そのためにも、いまのこの資本主義をどうしても経由しなければ、ここから外には出られないのだから、資本主義の形式に一度脳のなかの設定を合わせてみるのがいいのであります。

*あなたのなかのコード化を抑制してみよう

あなたは若い世代といまのままなら合わない関係になっていて、それが仕事で見えないところで支障をきたしているのです。それはあなたからは見えてこないもの。コード化の差異が目の前の他者から生まれたなら、すぐにあなたのコード化は自分のコード化により合わせることになって、他者を否定的に見て終わっていく。あなたは自分のコード化をよりよく見せるために、他者のコード化を否定的にとらえるか、あなたと一致するコード化に寄り添っていく。どちらを選択するのかも、あなたには選択権がなく、その理由は生に意思が作動していないから。順序としては、資本主義は世界史を作り出すためにレトリックを使って、他のコード化を超える概念によってすべてを超越しておかないと、世界史はつくれないのである。ではそうすればいいのかというと、特にこの国土では、世界史よりも国内情勢でもとめたくなる弁証法的認識が相当強いことが、資本主義にも合わないような価値基準になっていくのです。コード化は自然現象のように見受けられ、あなたの自己内の運動を超えてしまっており、自分で気づけないのだからどうにもなりません。このままでは、若い世代と中年世代が通じ合うことがなくなり、自分のコード化に支配され続ける。それがさも自分の意思であるかのように見せられ、あなたは生きているように思っていく。それがずっと続くのなら、それ以上の自己開示されることなく、未来は閉鎖され、どこともなく、行き場を失っている一人の人間になってしまう。コード化を外すことが資本主義システムに合わせる設定となっていく。一度やってみるといいのです。あなたのこれまでの生きるという道程は、世界史を作り出せる斬新なものを表現してきましたか?道徳的にも、倫理的にも、周囲のひとがそう思っているわけではないと思われてるだけに、恐ろしいことになる予感がするでしょう。コード化に縛られているほうが、安堵な快刺激は与えられるけど、それのほうが一番こわいことなんです。資本主義システムに合わせて、仕事をしてお金を得ているようで、資本主義システムに合っていない選択なんです。

 

本サイトのエクリチュールは、いまを生きるひととなった有機体の脳が情報の入力と出力によってできる限りの連合や総体を緩め、解体したところまでろ過をして、無意識的に表現された実践的哲学なのですが、途中の段階で、西洋哲学のパサージュ(経由)していまの熱量を抑制し、未来を先取りするために、行なわれます。
フランスの精神科医であるフーコーという哲学者の文献をパサージュします。
そして、その哲学者が著した文献であることもあれば、その人物を客観的に批評したり、論じたりするような他の著者が扱うものも導入します。
これらのパサージュは、そうやってパサージュした哲学者の一生を追いかけているような伝記をじっくりを見る必要はなく、とにかく、哲学の形式で脳の思考の運動が神経系の促通から生み出されたものをパサージュして、あなたの脳の神経系の運動のためでありますので、それらのなかで表現されているエクリチュールが重点をおきます。
そのようにすることで、西洋哲学があなたのような日本人の女性とは人種も民族も慣習も違っている哲学を実践するエクリチュールに触れることが、あなたの脳の思考の部分に差異を生み、思考の神経系が作動しやすくなっていきます。
ところで、このフーコーは精神科医であり、哲学者でありまして、当時のフランスでは精神疾患を抱える人間(患者)が増え、正常と異常との線状での社会的な区別、それらを差別する偏見や、精神分析というフロイトやラカンなどの分析家の活躍から、精神疾患を抱える患者への心理的な治療という行為も発展しました。
このフーコーのエクリチュールにありますのは、自己破壊性をもつロジェという患者が、心理的な症状を精神医学からの診断で、ロボトミーという脳の細胞に直接手術をして除去する治療が横行していました。

*ロボトミー手術(前頭葉白質切截術)

ポルトガルに医師、エガス・モニスが開発した精神疾患を根本的に治療する目的で考案し、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞。
知覚を脳に伝える部分として知られていた視床と、知性と感情をつかさどる部分とされていた皮質に繋がる神経線維を外科手術で切断することに世界で初めて成功する。

これは、日進月歩といわれる非哲学の領域で人間の専門家としての権威のために患者が使用されるのは横目にされ、精神医学は心を扱う哲学の実践から、徐々に脳の科学が適応されて精神疾患を脳の細胞を取り除けば改善するという科学の証明に走ってきていました。
多くの人は、ある特定の分野に浸透していたら、非哲学によって権威主義が中心におかれ、それらの行為や概念は患者のためだともっともらしい大義名分にさらされていますが、それは哲学のない権威というのは、少しずつひとのためではなく人間のためという偏狭(へんきょう)に方向転換されていきます。
フーコーは、そういった哲学から生まれた精神分析が現代科学の分野から批判的な風潮と脳科学の発展による権威の力によってこのロボトミー手術を選択したという事実を精神医学の臨床現場から違和感を感じ取りました。
フーコーは病棟で仲良くなったロジェがロボトミー手術を受ける前に、彼の苦悶した表情、それが彼が表現するストレートな自己内面性であるのは、人間の内面的なそのひとらしい心の表現であるとして、彼の表現が忘れられないと感じ、精神疾患が劇的に改善されるのなら、ロボトミー手術でもいいのかどうかに疑問を感じ、テーゼにしたのです。
ロジェはロボトミー手術で自己破壊性は改善したそうでありますが、それが善の意識に科学の信仰の最上だと感じ、そこからフーコーは精神疾患を抱える患者に関心を持ったのではなく、医師と患者の間になにが起きているのかという地点からのひとへベクトルされた熱量から生まれた実践的哲学です。
このフーコーのテーゼは、ほんの50年前の出来事です。
このテーゼが、50年前という過去の古くなったテーゼであるといえるのでしょうか?そして、これらのテーゼは50年経ったいま、哲学として新たな領域にフーコーのエクリチュールから立っているのでしょうか?
これは、そうでないと、明瞭に申し上げられます。このテーゼはいまだに続いていて、脳の科学はさまざまな道具を作る分野に置き換えられており、そしてそれらを売り込むための広告などはますます科学的なプログラムによって言語表記されてきています。
精神疾患は社会性を奪い、家族も社会構成体も扱えない異常な対象としてさまざまな問題を抱えるのは事実でありますが、その前提として、家族が求めている家族像というのは五体満足で精神的に安定し、なんの問題もない対象でなければいけないと理解しているからなのであるのです。
ひとつの解答にはひとつの問題であるのは、本質的にはあり得ないのです。
フーコーのテーゼを本質的な内在平面に立たせてみると、ひとはひとりひとり違っているところを基礎におかなければならないことと表現しています。
このフーコーのテーゼは、あなたのいまの諸問題に十分なぐらいかかわりあえていけるのです。
この事象は、あなたの生活の中心になっている諸現象はたくさんあります。
たとえば、からだの調子が悪くなった状況であなたが取る行動の選択です。
からだの不調を訴えると病院に行き、検査を受け、血液検査やレントゲンなどの完全を不完全にしている善の意識の知の考古学で診断され、体調不良に対して病気の有無を断定されます。
あなたはこの断定を何の疑いを持つことなく、素直に受け入れることになるのですが、そのような診断が絶対であると誰が決めたのかという、差異がなく、あなたの脳では自然に決定されます。
いまエクリチュールしたところの範囲があって、その後の論理性の展開があるのですが、これは診断された後に起こる経過は、病気と診断されたのなら薬が処方され、病気と診断されなければいままで通りの生活に戻ります。
これらの行き交う交互作用には、あなたにとって自由に得られているものではなく、交互作用のうちどちらを振り向いても、規定された制約があるのです。
それはどういうことなのでしょうか?
これは哲学を導入しなければ、この相互作用でさえ見えてきません。見なくて生きてきたのが、あなたがこのエクリチュールという言語生成の意思の脱構築でその場で痕跡と化した言語のメランコリー(憂鬱な気持ち)があるからであり、まだ社会や他者などの外部性による変形が残存してはいるものの、言語表記の最小単位での分子となっているのがメランコリーです。
非哲学では哲学のない世界で、認識として脳のなかでは神経系の運動は停止して、固定されたスクリーンで外部性に統一した総称を言語表記で作ります。
そうすれば、固定された脳のなかは違和感が発生していたもののそれが緩和されたような感じがして、納得できるような気がします。
人間に背負わされたのは、現前からあるとされる人間の弱さから導いた諸問題をすぐに解決しなければ気がすまないようにできています。これは、根本的にそのような性質が人間にあるのではなく、外部性の統一によってそれが外せずに、そのままの自分、この自分は内面的な根源から知った自己ではなく、偽装された人間であり人間像ともいえます。
これらは、前述しましたフーコーのエクリチュールでは、精神医学が権威をもち、熱量が高まるとそれらの範疇は広がりを見せてくる。その広がりは、深層にまで到達しているような栄光も引き出してくる。これらは、フーコーが諸問題に哲学を入れ、諸問題から社会性を抜き出して問題と問題が融合されていたのを分離し、問題ではなくしました。それで、人間が異常とされる精神分裂症のような精神疾患は人間の見えていない領域に対するおそれと善のイメージがのせられた神秘が見えてきたのです。
フーコーは人間ではなく、ひととなって、心理学者でもなく、哲学者でもなく、物事をありのままに見るようなセンスをもっていました。
この段階で起こっていることは、現代は特に科学性に依存する生活に人間たちはおどらされ、偽装された人間化を抱えきれず、科学性という全体性を抱えた外部性に求めたのです。
これはどういうことかというと、人間化された人間の認識で外部性を受け入れるのと、科学性による人間から離れたところで外部性を抱えるのと、等価的な要素です。つまり、これらは同じことを繰り返してるのであり、変化しているように見えているのは、幻影が固定されているからであり、それらは人間が認識されて人間の神経系の無反応から変化までも幻影となってしまって、制御できなくなったのです。フーコーのエクリチュールから読みとると、人間を見えていないところを知るという知的な欲求は精神医学に結合されたのですが、精神疾患での異常な人間像を説いてしまい、これは人間を規定したことになり思考はかなり狭義になってしまったこととが負に結合し、精神医学から生産性を求める人間を疎外した極端な経済性になっていく展開が読み取れます。
現在のあなたの生活が仕事をして、やりたくもない労働をしてお金を得るという過程が単純な論理性を生み、因果律になってしまって、精神医学の関心は疎外しながら、人間のからだとは、こころとはという真に求めたいテーゼが内面から湧き起こってきているのに、そこともつながり合えないままです。
フロイトやラカンが出時した20世紀の心理学は、思考、反省、省察という神経系の内部運動、これが哲学になるのですが、少なからず、実態のある哲学からの真理に基づいていましたが、それらが精神医学という学問が急速に権威を持ち始めたのも、真実としては哲学を批判的に見た科学的認識を抱えた人間たちがそうしましたが、それは人間の正常と異常を規定するものとなってしまうのです。
すべてがフーコーがエクリチュールするように実態の変形なのです。
哲学から精神医学、そしてそれが経済性に発展したのです。
これらの三つの言語表記は、まったく違う分野に意味としてとることができるような想起になるのが非哲学の物の見方であり、そこに気づく必要があるのですが、この三つは同じ分類に脳のなかでは行なわれていくのです。
哲学は変形され、権威にないひとに有機体の装置である脳から脊髄、そこから各器官に血液、神経物質、ホルモンから生成されるもので、本質的には言語意味生成は関わらないのですが、ひとはそれらを伝達するために言語を媒体としたというのが、哲学がそのまま生かされなくなっていった背景です。
哲学がそれで弁証法的認識での反転があり、それがあなたの日常の大地を感覚的なものに懐疑していき、転覆をさせていきました。
あなたの日常から哲学はなくなりました。それでもあなたというひとは哲学を求めるような構造体をもった有機体で、それがからだとこころという運動に入力と出力する経路があり、これがもう哲学そのものの運動であります。だから、哲学がないということはありえないのが真実のものなのに、あなたから哲学がなくなっています。それでは違和感だけが残されてしまうので、生きていくことにかなりの割合と頻度で障壁が出てしまうのに、そうしないようにしたのが哲学の権威的な知性のみを残し、パロール(音声言語、話し言葉)にして社会性に入れ込んだのです。
哲学というのは、フーコーのエクリチュールにもあったように、思考し、反省し、そこから哲学に入っていくというのがひとの有機体の構造体から生まれるものです。それをなくして、そうでないもので世界を作るには、違うものという前提がなければ遂行できなくなることから、非哲学という世界を作ったのです。
これによってひとが求めている構造体のまっすぐな大地を同じ運動出力を否定が完了したことになり、外部性が前提にした世界や社会は了解をしたということになります。ここから世界が始まったとしたいのが、権威であり、精神医学もそこに入ります。ようは、人間の規定を行なうことで、スムーズに社会が運営されていくという形式を作りたかったためであります。
非哲学の世界とは、これがまさにあなたが生きている日常とされている非日常で、仕事をしてお金を得て、仕事があって休日がある、仕事の先輩、同僚、後輩があって、学生時代の友人がいて、仕事を行なうのが現役時代であって、仕事を終了したのを定年、老年という、これは二面性という弁証法的認識の論理性で、根本的には人間を正常と異常に分類するところからきています。
非哲学は、運動の喪失した外部性、小さな元素の大地にのせられているものをすべてを吸収して、総体にしています。総体にするということは、それそのものの実在されたものという実態がまとまりを見せているのではなく、それをとらえるところの人間の内部での反応となり、ものが総体になることはありえません。非哲学の設定となったのは、あなたが生きている全体性を維持しようとする社会が起こしている理想であるのと同時に、それをそのような全体性としてとらえてしまうあなたの人間の内部で何が起きているのかというところに因果があることにもなります。
ひとは有機体の構造から神経系の運動として考えていくと、非哲学よりも哲学を欲しており、非哲学ということは求めていないばかりでなく、内面的なかたちとしても持ってはいないのですが、あなたは非哲学の世界に育ち、そこに居住し生活をしているのです。
非哲学という人工的に設けられた世界にどうして生きていられるのでしょうか?
フーコーは、前述のエクリチュールで、ロジェというロボトミー手術をした患者を例に挙げていますが、精神医学という学術的な分野での思索が科学性と結合し、脳の解剖学的知性から障害が起きている脳細胞の部位をとれば患者は精神疾患が解除され、正常に戻るととらえていることに問題があります。
そもそも、病気というのは個人の人間が作り出している定義が違っているといえます。病気を作り出しているのは、社会が正常という規定を行ない、そこにさまざまな条件をたくさん入れることで起きているのを、権威側にいる医学界の人間たちはそれがわからないものであるのを証明しています。
フーコーはそこに哲学を導入する目をつけたのであります。病気になった患者と医者、またはその属されてる世界である医学界とのかかわりのなかで起こっていることに興味を持ちました。これはあなたという女性が幸福になるための実践でなければならないのですが、これらはあくまでもパサージュという経由でありますので、どこかでエクリチュールに入り込んだ段階でのある地点で、回転させ、あなたという個の未来に通じさせなければならないのです。

では、このエクリチュールの文脈の展開からどのようにあなたに整合させていくのが良いのでしょうか?
フーコーが出会った患者のロジェは、ロボトミー手術のあと、精神疾患は改善したといいます。医学界の常識と人間が規定した幸福論が一致する観念だと、精神疾患が改善したほうが生きやすくなるからそのほうがいいと、それが善の見方になるのがよくわかりますし、あなたも風邪をひいて、自然治癒力に任せるよりも、早い段階で病院に行って薬ももらったり、ドラッグストアーで風邪薬を買い、飲む行為を取ることはしばしばあることでしょう。こうした行為は、あなたの脳の行動をプログラムする細胞群に風邪をひいたら、薬を飲んだほうが早く治り、それのほうがいいという価値基準があるからであります。
そうでなければ、有機体の構造の神経系のメカニズムであれば、自然治癒力のほうが自然現象を生むので、その選択をするのが自然反応であるはずなのに、そうはならないのです。これが非哲学の世界があなたと世界の間に何らかの関係性を作り出して、あなたはみずから気づけなくなっています。
行動をプログラムするのは、脳の欲求や感情、過去の記憶、それらの情報を連合させる認識という経路も含まれますが、脳のなかのメカニズムでは欲求や感情もかならず経路を通過しているはずなのに、有機体がもつ感覚的な作用よりも外部から取り入れた価値基準のほうが選択されるのはどういうことなのでしょうか。
フーコーのエクリチュールのロジェは、精神疾患として患者扱いをして、病気は治すべきものという前提、そしてその前提が導きだすのは、そんな異常な精神の反応を抱えていたら幸福ではないだろうとする個体が反応するかどうかには一切かかわっていないのに、ロジェの意志に関連しない治療が行なわれてしまう。これは、病気と診断されているから脳の細胞を切除する手術が決行されたという具体例になっているからあなたに合ったエクリチュールになりにくいものとされますが、病気でないとしても、人間の行動プログラムは脳の細胞を切除したのと同じように、神経系の経路でさえ、本来の運動が行なわれていない可能性も示唆されてきます。
社会の権威が過去の封建主義の時期よりいまは、民主制で政治にもあなたという個はかかわっているという形式になっており、個体の基本的人権は尊重するという憲法の文言にあるように、あなたの精神は緩和されているようにも見えていまうが、今度は脳の内部での神経系の運動の誤差を生むような諸現象が起きているということは、ロジェのような極端な精神疾患という極端な反応が出てきていないために、推測もしずらく、判断も難しくなってきています。


本サイトは、女性が自分の知り、それまで欲求は食欲、性欲、消費欲と思われていた基準を、知的欲求に変更する目的で作られています。
どうしてこのような女性専用でしかも、今の世の中ではほとんど行なわれていない哲学を内蔵させたのか?
この問い(テーゼ)の今の段階でわかっている地点は、女性には感性という自由な神経系を持つというところからです。
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本サイトは、女性であるあなた自身が今よりも充実感や幸福感を高め、日々が満たされるよう、そのお手伝いをさせて頂くことがビジョンです。
そのための入力を反復して頂くことが充実感や幸福感、美意識による生き方の変更、日々感じておられる仕事や人間関係などの疲れ、心に限らず身体に感じるイライラ、倦怠感、憂鬱な気持ちにも対応できるようになっています。

入力を促すには、本サイトが無料でお読み頂ける実践的哲学で構成された記事をお読みください。
これは、本来の普遍的傾向でしたら、無料でお読み頂く記事を無料にはしないほどの内容と質と量が伴っており、この記事が有料となるのですが、入力は自由にやって頂く方が適切だと考え、生の哲学を現代に合った文体で読むことができます。
これが、始原的な入力となり、何度も読んで頂きますと、入力の神経系は解放され、そのうちあなたの内部運動が持つ制御が生まれ、発散から収束され、あなたの思考の資材となります。

そこからより個別的に自分磨き、または疲れがなかなか取れない、孤独感があって、一人で過ごすことは不安や焦りが出てくる感覚がある方は、一歩進んで個別的実践的哲学に導入することをお勧めいたします。

・プレミアムメンバー;月額2,700円

あなたという一人の人を哲学により解体し、実際の未来へのビジョンや理念を立たせるお手伝いをいたします。必要に応じて、パロール(話し言葉)が必要ならオプションで実践的哲学をトレーニングしている哲学者とコミュニケーションの時間を作ります。


実践的哲学用語
女性生きる 女性哲学

*知覚とは?
本サイトが実践的哲学を行なうことで興奮するのが知覚と定めている。もっとも女性のなかの根底にあって、微細なエネルギーであるのに、身体や心の端から端へと末梢という皮膚と筋肉のあいだの毛細血管の反応をよくする器官としている。知覚は医学的には神経系の感覚が脳の感覚野という連合作用をつくるもので、無意識的とされているが、本サイトでは西洋哲学と精神分析者であるフロイトとラカンをパサージュ(経由)し、知覚は胎児期から出生時に起こされたどこにもつながらないで起動した根底の運動だと考えている。

1,自己内の神経系が末梢に伝達するリズムが失われてそれを探している

2,自分のリズムを失われていったため、頼るものがなくなり、それが発達時の周囲のおとなに合わせていった喪失感

3,社会がつくった人工的な不安という認識に追いかけてもどこにもなく、自分は不安だから人間関係や仕事、家族との関係を断ち切れないとする誤作動の疲れ

4,本質的にもっている身体のリズムを探したいのに探せない焦りと不完全な感覚。自分らしく生きようとしても手がかりがなく諦めてしまう自分への嫌悪感

*実践的哲学;禁止を侵犯するエロティシズム
実践的哲学では、エクリチュールのフィールドで思考に運動を与え、見てはいけないところだとか、いつもなら思ってしまうと仕事をしていくうえで、それが集団生活においての都合上での弊害がうまれるために、思考を停止させている領域。そこに運動を与え、運動を促していき、いつもなら見えないところをともに見ていこうとする実践である。思ってはいけないというのは、人間には基本的人権を尊重され、思想の自由が保障されているのにそれができないのは自由ではない。実践的哲学は、西洋哲学をパサージュ(経由)して脳のなかの大枠として外延に安定をあたえておいてから、思考に運動をさせていく。知らないことを知るように、考えてはいけないのに考えてしまうのは禁止という事項を壊すという侵犯がうまれ、社会に規定された認識ばかりが脳を支配して、自由を抑制されていた神経系を快楽にもっていけて、神経系の運動の起点を作り出せる。これを実践的哲学ではエロティシズムという。
本サイトでは、エクリチュールのなかに、なんども自然発生されたテーゼを重ねていき、西洋の表現をすれば、ランダムに言語を出力させていくことで、規則性が見えなくなり、あなたの脳のなかは体系となっていた一連の非哲学からの非運動は気づきに変わっていくのです。
規則性が見えなくなると、エクリチュールのなかで、どこかでそれが出てきたなと読解された非規則な言語はより意味をはく奪されて、意味の失われた言語は記号となっていきます。
あなたは本サイトのエクリチュールは、言語を記号にしていき、脳のなかの痕跡に近づけ、最高の神経系のパフォーマンスを生むための興奮という作用を生み出していく実践

実践的哲学をするとは;人間として生きるのは社会が規定した人間で非哲学。人間として生きるならいまから10年経っても20年経ってもおなじ現実ができあがる。なぜならそれは非哲学だから。非哲学とは、いまをおなじまま保存する脳の記憶を揺るがせないようにするため。生命力は低下し、社会に依存する人間を大量生産する。面白くない生きる時間をつくるが、それにはだれも気づかない。実践的哲学が浸透すれば、哲学的な人間からひとへと脱構築されるため、人間はひとをみて悔いを残す。あなたは生きることをすべての出しきって生きるので実践的哲学でひとになり、人間をみてほほえむだろう。

*実践的哲学から見た脳のお話
実践的哲学では女性の心を探しだすために、身体を中心において身体から哲学を作りだします。それは、目的は心というものを知るのと同時に心が単なる想像的な枠組みの構造であることを知るためです。心というのは存在しておらず、幻想的なところで、女性にとっては神秘性もあれば、自分の嫌なところが性質や性格にあると思っているのなら、心に嫌な部分があると思ってしまうこともあるでしょう。それを実践的哲学で女性のあなたの脳の神経系の運動を実際に使い、そこからの反応を待つというのが実践的哲学です。哲学とは言語によってあなたにかかわり、問いかけをして心をつうじる実態のある運動なのですが、心はいま申したように実践的哲学をすれば、心は存在しないことに気づきます。心は精神という言語を入力したあとに、自分の想像的な言語出力で残される空間である精神という地点にあります。それらを説いていくと、ひとという構造が見えてきて、生がこの地球上でなにを求めているのを知ることができ、あとはそれに向けて生きていけば、女性においては個体が求める幸福にたどり着くことができるのです。実践的哲学は構造をとらえていく実践です。脳のなかもつうじていき、大脳皮質が強い認識でそこが司令塔となって生きていると思ってきたいままでの生き方を修正します。大脳皮質よりも下層にある無意識的な運動を行なっているところにほんとうのあなたの生についての情報が隠されています。それを追いかけていくために、実践的哲学は大脳皮質やその下層の皮質下という領域まで入っていくことができるようになります。

*大脳皮質と皮質下のシステム
大脳皮質は皮質下の神経系の伝達でえた一部の情報を過去の認定された情報とすこし照合して判断します。それが適切かどうかをすこしだけ考えてくれて、またおなじ情報に戻すという連合される機構があります。ひととしての構造は大脳皮質がサブシステムで皮質下がメインシステムでありますが、人間像と学習された知識がこのシステムを狂わせるのです。多くのひとは人間でいなければならないと思って皮質下の感覚的情報を無視して、大脳皮質でえられた一面的な情報の連合を信じて、それが自分だと思ったり、そこから見えている世界が現実の世界だと思いこんだりします。皮質下をメインシステムの戻すのが、実践的哲学の目的であります。皮質下というのは、生存欲求が起こる脳幹、情動や感情が出力される辺縁系、身体感覚の中心である脳幹網様体の姿勢制御のスイッチなどが入っていて、皮質下を実践的哲学でメインシステムにできたなら、感覚的な作用を感覚レベルで連合することができ、生きることを意識できるようになっていきます。

*実践的哲学をするとシンプルに生きていける
実践的哲学は、西洋哲学をパサージュ(経由)して、古代ギリシャから始まったとされる哲学、宗教、科学を総体的にとらえて、女性の内面的な感性の豊かさにより運動を与えつつ、社会は大脳皮質での認識で物事をとらえようとして、女性の感性はその下層の脳の部位である皮質下の運動が活発さから、女性は自己について曖昧さをもち続けています。いつもなんとなく生きていたり、社会に自分の弱さが結びついた女性なら大脳皮質を無理に使用して、生きることを社会の外化されたままの自分を受け入れています。仕事がすべて、結婚がすべて、子どもがすべて、趣味がすべてなどというような、いかにもという偽装されたスタイルは、冷静に他者がみたらわかるぐらいの違和感ですが、曖昧さを抱えている女性はひとりからふたり以上の女性が集まると日ごろの曖昧さの葛藤からパロール(話し言葉)をくりかえして、自分を急速に満たしていくという行為をくりかえしていきます。これは反復という原理で、生は自由に生きたいと欲する真の運動と死は禁欲により自分を抑えることで自分は世界で成り立ってるというような二面性がぶつかりあっているのです。曖昧さを満たすのが死に向かっていく反復で、満たされたような錯覚が心地よくてやめられないというのが生の反復となります。実践的哲学は、西洋哲学をパサージュして、体系的なところに立っていただき、そこから自由に運動する内面を感じては、女性が自分の自己像の思い違いを修正し、生に意思が入りこめるところまで、かかわっていこうとするものです。そこまでの神経系の運動はサポートする相手がいなければできませんでした。ほんとうの自分を探したいというのは女性の衝動でありますので、女性に哲学をしてもらう機会をあたえないと、生と死の二面性による反復が、女性の曖昧さを高めるとともに、その曖昧さを満たすための集団化に終日、エネルギーを奪われてしまうのです。そのようなことを経て、自分の時間設定が一となり、いままで社会に規定されていた常識が外れると、あなたが行なっている労働である仕事についても、まっすぐに省みていけ、それがどれだけ自分には還ってこないものなのかがわかれば、あとは自分の構造から立つ上がる唯一のあなただけのビジョンを頼りにその段階では生に意思が与えられていますので、シンプルに生きていけるようになります。

実践的哲学では、すべての世の中にできている事物にたいしてテーゼ(命題)として、空間に浮かせ、そこで事象に運動を行なわせ、反応をみることができるようになり、それによってあなたという小さな個人というひとであっても、この世界中の事物は一時的に自分の脳のなかで生きていくための知恵として活かしなおせます。

パロールを抑制し、そこから反転されるエクリチュールが女性の想像力を潜在性の最高値まで促通する。そこを感じとり、女性が自己の知覚で捺印すれば、体感されていない悦楽までが内面で表象となっていく。

実践的哲学で言語の再構成を

あなたが現実社会で生きていると、これらの言語(用語)に慣れ親しむ機会はありませんし、これらは哲学の領域で西洋で使用されてきた言語で、これらを丁寧に本サイトはもう一度取りだし、現代に合わせ、言語の意味生成が導きだす方向性を社会からの発信ではなく、言語を生の状態に実践的哲学から抑制し、言語が発祥したときぐらいに沈黙に限りなく近い様態にして、活用します。

実践的哲学は体性感覚に

この体性感覚は、実践的哲学では主軸になる感覚の領域で、哲学をすると視覚や聴覚を抑制し、からだの感覚の流動に意識を向けるようにしていき、その意識は意識のなかでも無意識という無の運動です。
実践的哲学は、無を求めるために、世の中に広がってる全体性を保存している有を実態のある運動を与えてそれらを運動として動かして、塊になっていたものを外延から緩め、有を見えているところから除去するのです。

*実践的哲学でパサージュする価値

これらのパサージュは、そうやってパサージュした哲学者の一生を追いかけているような伝記をじっくりを見る必要はなく、とにかく、哲学の形式で脳の思考の運動が神経系の促通から生み出されたものをパサージュして、あなたの脳の神経系の運動のためでありますので、それらのなかで表現されているエクリチュールが重点をおきます。
そのようにすることで、西洋哲学があなたのような日本人の女性とは人種も民族も慣習も違っている哲学を実践するエクリチュールに触れることが、あなたの脳の思考の部分に差異を生み、思考の神経系が作動しやすくなっていきます。

この記事のライターのtakが行なうコアパーソナルトレーニング。
実践的哲学に入る前に、脳を初期化するために、まずからだを調整し、大地と共有させておくことです。それを主にしたパーソナルトレーニングが次の記事で書いてありますので、ぜひご覧くださいね。

からだを発達時に戻して姿勢を美しいセットアップさせる

からだを重力の中で安定させ軽くして皮ふと筋肉のセンサーを刺激する

女性が美しく痩せるには?重力のラインに垂直に持ち上げる感覚刺激の反復で美しい姿勢のシステムとホルモンバランスシステムを高める

ジムに行って痩せたとしてもお腹のお肉は取れない決定的な理由はからだへのストレス

コア美人を目指そう|七回のコアパーソナルトレーニングで永遠の美を手に入れる

コアの鍛え方と磨き方の修正。コアは発達時の姿勢を取り一番安定するポジションを探す。コアパーソナルトレーニングの価値

姿勢改善で猫背のゆがんだ脊柱をコアコントロールでまっすぐに。姿勢を改善すると代謝システムが永遠に続く

女性を大地と結ぶBeauty-Core-Concept

BCC理論と他のパーソナルトレーニングの違い

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tak

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