女性のための哲学

一度も教えてもらっていない女性のための哲学|女性の心の疲れと不安を取るための哲学

投稿日:2018年3月11日 更新日:

女性のための哲学を組み立て、生きることの根幹の生に意思を与える。

女性幸福 女性哲学 

女性は世界中の多くの人々と同じで自分のやりたいこと、自分に合ったものを探し続けていて、いまもなおそれらは探されることなく、さまよい続けています。

生きることの時間は限られており、小さい時に人生のレールを周囲のおとなの都合により、先祖代々を継承するのが一番の人間らしさだと間違った価値基準を押しつけられてしまったことによっていまもなおそれらを消去できず、したがって自分のやりたいことが何なのかをわからないで生きています。
生きることに精神性という思慮深さが生まれ、感じられていけるのは、周囲のおとながあなたを抑えつけた価値基準はあなた自身から生成されたのではなく、他者のものであり、その対象は社会などの全体性が深く関与しているために、ますます自分という内面は見なくなっています。

それでも、その違和感を抱えてでもどうしてそれを解除しないのかというのが、この記述(エクリチュール)を読んでいただいても自然に考えていけそうな気がしますが、これが自分のこととなると、そう簡単にはいかないのが現状なのです。
そこには、女性がいままで学校や家庭でだれからも教えられず、だれからも聞いたこともない誤謬(ごびゅう)を含むとんでもないパロール(話し言葉)の権威が女性の内面をしいており、神経系というあらゆる学習系のかかわる内部運動が停止しています。

内部運動というのは、外からは見えてこないところでの電子や分子レベルでの運動であって、予測や想像を運動させてみなければみえません。
それをまた見るためには、あなた自身の見えない内部運動を感じとり、そこにスイッチを入れなければならないというところが難しくもありますが、生きることに好奇(こうき)させるには、ぜひとも、いやできるだけ絶対的にいまから行なっていただきたい実践であります。

*実践的哲学

これは女性のために立ち上げられた日常的に行なえる手軽な哲学の実践。
西洋哲学をパサージュ(経由)して、西洋が到達できなかった哲学的実践をたどり、まだ途中となっている本質の追求を引き継いだのが実践的哲学を運営する本サイト。このサイトは成長、発展のさいちゅうであると理解しており、多くの女性よりは少し前進する位置で研究や研鑽(けんさん)を行ない、女性がわかりやすく生きれるように導いていくのが本サイトの目的。
今日までの男性社会が主導権を握っていた社会構造はますます弱体されていて、それが見えてきているのが、お金がすべてだという強い権威志向でなっている。
そんな世界に女性がいると、女性もそれに巻きこまれてしまって、せっかくの女性の感性や感覚という機能が磨けなくなり、女性が生きることの活動のための根幹にある身体には、唯一のビジョンを探し出そうとしているのに、脳のなかがそれに応じるシステムでなくなっていて、それを解除して新しくするのが、実践的哲学。女性のための哲学である。

ボーダーラインという表記がありますが、そのラインを壊すか、そのラインを超えるところにもっていくかで、ひとは自分の価値基準のモデルを解体して、バラバラにすることができます。

たいていは、そこのラインを超える手前で行き詰まってしまい、あなた自身で気づかないうちに、内部運動の基底である神経系の運動というものが抑制されています。
それはほとんどが自律的な反応で自分ではわからず、むしろいまの自分というのはそのボーダーラインよりも下位にある連合された出力でありますので、知らないうちにそこに収まっているのです。

それらはあなたからは見えないものであるために、見えないからまあいいやとは、そんな簡単なものではなく、ひとがもつ内部運動はそのラインを超えようとするのが、女性が生まれながらにもっているもっとも根底にある電源、それを知覚といっており、知覚にも自律的な運動があるので、そのラインをたえず超えようとする作用があります。

*知覚とは?
本サイトが実践的哲学を行なうことで興奮するのが知覚と定めている。もっとも女性のなかの根底にあって、微細なエネルギーであるのに、身体や心の端から端へと末梢という皮膚と筋肉のあいだの毛細血管の反応をよくする器官としている。知覚は医学的には神経系の感覚が脳の感覚野という連合作用をつくるもので、無意識的とされているが、本サイトでは西洋哲学と精神分析者であるフロイトとラカンをパサージュ(経由)し、知覚は胎児期から出生時に起こされたどこにもつながらないで起動した根底の運動だと考えている。

しかし、そのラインを超えるには、あなた自身の努力ではとどかないぐらいのラインなのです。
とにかく、そのラインを超えなければいつもと違ってる感覚が女性の内面に表出されてこないため、またいつもどおりになる世界があるのならそれでもいいのですが、そのラインを超えようとして超えられなかったという経験には実態があるので、それもまた経験という学習作用を生んでしまいます。

このラインを超えるところの感覚的な想定ができる経験が必要で、それを可能にするのが哲学をするということになります。
哲学をしなければ、このラインを超えることができないのは、何年もかけて反復されてきた西洋哲学を読めば、よく分かってきます。
それが、西洋哲学はもともとはギリシアから発展し、そのころは貴族と奴隷を明確に分けていた社会制度で、貴族はそうやってどんどん精神性を磨いてこれましたが、いまでいう一般のひとは、そのころは文字を読むことも書くこともできませんでした。
それは、西洋哲学が今日まで文献として数多く残され、日本にも日本の哲学の学者たちがたくさん訳してきていて、読むことは簡単にできるのですが、あなた自身がそのような脳のなかの設定がまだ哲学できるようにはなっていません。

つまり、あなたがこの世に生まれる前の10カ月ぐらいの母胎のなかの胎児期から内部で起動させていた知覚が起こす運動の形式は、哲学が発祥したギリシア時代とおなじ関係性で構造はなりたっています。それが、日本に限っていうと、文字を読めたり、書けたりするのは国家が労働をスムーズに活かせるために、義務教育で学ばさせていますが、前述しましたようにギリシアでは貴族と奴隷の区別されていたのが、それが現在はないにしても、国民を構成するほとんどが貴族らしい脳をもつひとはだれもおらず、ギリシアでいう奴隷とおなじ内面をもつタイプばかりが増えてきています。

文字を読め、書けることで、自分は最低ラインの教育を受けた人間であると思いしっていて、ひとが変わっていくために境界線であるあのラインを超えることがほんとうに難しくなっています。

本サイトの西洋哲学の文献をそのまま引用するパサージュ集がこちらから
女性が抱える心の根本からの悩みを受け入れる|ベンヤミンの敗者の歴史と女性の悩みのパサージュ

ベートーベンを乗り越えたリヒャルト・ワーグナー|女性の心を癒すオキシトシンを増やすパサージュ

女性の悩み解決に近づくには|フリッチョフシュオンの秘儀と信仰の哲学で女性の悩みへパサージュ

実践的哲学をするだけで、生と知覚、未来がつながりあう

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女性が仕事が面白くないとか、現状のどの会社も、それが大企業といわれる大きな組織ほど、人件費削減をしてスマートにならないと、生き残っていけないと組み立てを変えようとしています。
マスメディアは、ロボット工学であるAIであるハイテクノロジーを強く押しだし、どの業界も弱っていることを披露したくないという顕示欲もあって、よりこれからはAIだというごり押しするパロールが多くなってきています。

そういった流れをうまく使用して、大企業は大幅な改革と称したリストラ策をねっています。
当然、雇用されている人たちにはその真実を聞かせることは絶対にしませんし、雇用されている人たちには、この会社は安泰で、ずっといてくれていいという社風を掲げていますが、このサイトの実践的哲学をすれば、お分かりになられてきますが、それがいかにして誤謬であるかも見えてきます。

そうなったと、これからの生活はどうなるのというような表面的で、全体的な悩みから認識上での不安というところで停滞する必要がなくなってきます。
たとえば、おなじ会社のひと同士で、仕事のあとに、仕事について語りあったとしますと、その話の内容はこれから先、この会社にいても不安だなという表層から出力されてきたパロールをともにしている対象に表現します。
それらは、弁証法という世間一般に使っている非思考の形式から考えることになり、それらは二項対立によって、かならず先行している前提の悩みのほうに戻されるようにできています。

右に向かっていく力が働くなら右に向かい、左に行く方向の力が働くなら左に向かうように、この弁証法というのは悩みを解決することに取り組んでいると思わせられながらも、それは解決にはなっておらず、最初にもっていた価値意識によりシフトしていきます。右から問題とした事象をとらえたなら、左からはという対照命題を立たせたとしてもそこで弁証法が介在されると最初に立てた右から導く論理はいつまでも右からの論理であるところからの解答になっていきます。

これがヘーゲルというドイツの哲学者が形式化した論理方式ですが、ヘーゲルが活躍した当時、キリスト教での神という存在を個人主義が封建主義に移行した時期で、神をヘーゲルは問い、神は人間には不在であるという段階まで到達しましたが、それが弁証法という方法をとっていたため、のちの哲学者はヘーゲルは神の存在を消去したのではなく、神をより高めてしまい、現前にしてしまったのだと、ヘーゲルを徹底的に哲学を導入し、実践し、見えてきました。

ヘーゲルが哲学者としてこの世に現れたのは19世紀の初期で、そのころはまだまだ個人の尊重は国家においてはなく、国家主体、それも国家を支配する頂点にいる国王が実権を握っていました。そんななかで、ヘーゲルは哲学者としては相当優れていて、神を全体性から分節させられたのはヘーゲルがその世界で初めて可能にさせた哲学者でした。個人はもとより、国家の中心にいた国王でさえ、神がそうなっているのかはわかっておらず、神は信仰のうえで存在しているから、それは無下にしてはいけない対象であったというような見方が主でありました。

そして、それだけ影響を与えたヘーゲルでしたので、その旋風は国家から民間に伝わっていき、そのなかでも個体はまだまだ独自に思考できる神経系は未発達で、個体の集合体である大衆を先導するのが知識人という分類されたひとでした。
その知識人がヘーゲルの思考の方式、それがヘーゲルの哲学の実践した体系だったのですが、それが弁証法といい、『有る』ことが前提で、その『有る』というのが見える範囲でとらえられることが理性であると説いたのがヘーゲルです。

つまり、いまあるものは、人工的に作られたものもあるのに、それらをすべてを覆うように、あるものは、人間そのものなんだといってしまったという当時にしては斬新だった哲学もいまとなれば、個体の時代にさしかかっているのに、それが為されていないのも、ヘーゲルの思考の方式がいまも世の中のどこかで行なわれているからなのです。

*ヘーゲルが活躍した時期
1807年『精神現象学』1821年『法哲学』が出版されているため、主に19世紀初期であると思われる。

そんな弁証法は学校教育でも容易なところで、普遍的に採用している時間を長く過ごしてきているあなたも思考をしても最初に立てたテーゼはテーゼではなく、問題はいつまでも問題であり、これから変わることのない固定性を抑制できない事象であるのを、あなた自身も理解してきています。

おとなはあなたに向かって『自分のことをもっと考えよう』といって思考をうながされた経験がおありだと思いますが、思考すればするほど、思考は停止してしまい、最初に立てた解答がいつまでも解答となってしまっていきます。

そのようなことはあなたの日々の生活にそのまま当てはまり、仕事について、会社のひと同士でパロールをすると、自然に弁証法が形式として作用されてしまい、やはり会社をやめないほうがいいよね、という帰結(結論)になるという結果であります。会社のひと同士ですと、会社が嫌だなと思いながら愚痴をいうのもありますが、会社をやめたいという意識があっても、多くのひとは弁証法の最初の非テーゼを信じていて、それがあらゆる思考の前提というところで思考する前からそれが作動してしまっていて、弁証法は会社をやめないほうがいいという帰結になるのです。

あなたは思考をしている自分という感覚を知りません。
生まれて今日まで、神経系は思考をしてきたことがありません。
たとえば、いままでにさまざまな岐路はあったことでしょうけど、そのときどき、思考をして自分の未来を選んできたのかというと、まったくそれはないまま、他者が選択した方向を見て、模倣をして、選んだようにしています。

思考が運動されないから、あなたから見えている視野とは、だれもが思っているのが見えている世界であると思い込み、あなたがいま見えているのが現実の世界だと理解しています。
しかし、見えている世界は思考がうながされた神経系の運動ではない非運動なので、見えている世界はいつもおなじなのであります。

10歳の頃、24歳の頃、38歳の頃、すべておなじ世界にみえていて、それが現実ではなく、幻想なる世界なのです。
あなたがこれから知りあうひとはみんな哲学のない現実で生きてきた人たちですので、すべてがおなじひとに見えてくるでしょう。
そう思えば、そのようなタイプの人たちと付き合うのはたったひとりだけでもいいぐらいで、本サイトは限局した友人関係を推奨しています。
たくさんのひとと付き合うのではなくて、極端なことをいえば、おなじ境遇の人が二人いたなら、そのどちらかだけの付き合いでよいのです。

もしあなたが付き合っている友人がみんな大切なんだと思ってしまうのなら、あなたは社会の教育システムを素直に受け入れており、友人と同等の生きる方向、種別でいいと思い込んでいるからです。
このエクリチュールをみて、あなたは少しどころかこころを揺らすような記述をするなと葛藤が生まれたことに違いありませんが、ひととして生まれ、すべてのひとがおなじエピソードで脳のなかを埋めつくしていたら、それは奇妙なことであると思いませんか?

週末が休みで、定期的に友人と会ったとして、週替わりのように違う友人と会っているかたがたはやはり非哲学の生きる方向を選んでしまったひとたちなのであります。
そのような生き方は、自由な選択だからいいのではと、思ってしまば、ひとは自由に自分で自分の生きる方向を決めて生きればいいということになります。

これは適切なようで、適切ではありません。
あなたは一体の個として、自然に対峙する精神的領域が広くて、深淵な生きる選択を望んでいる身体をもっています。
自由に生きるというのは、なににとって自由に生きればいいのでしょうか。

過去の事例を歴史的に洞察してみると、あなたはいま本サイトで実践的哲学を遂行していますので、社会の一員である人間ではなく、社会の労働の一部である人間ではなくなりました。あなたは実践的哲学から人間からひとという生物体に脱構築されました。
そして、現在にテーゼは、自由に生きるとはどのようにすればいいのか。

過去の人間たちは、社会が自分たちの対抗する勢力という見方が発展したときには、大衆はよりみんなおなじ思想でまとまり、全体性としてひとりよりはふたり、三人よりは五人というように数が多いほうが力が強いと思っていました。

これは、数が多いほど、ひとりの力というのは力の合成により、ひとりの力は弱くなっています。そう思っていたのが、幻想そのものでありますが、そういった思想は数学という学問からきており、いまもなお非哲学の人間を社会は増産してきていこうとしていますので、哲学を実践していかなければ、非哲学がなくなっていくことはありません。

おなじ友人はひとりでいいと推奨する本サイトは、哲学をすれば、全体性がなくされていきますので、おなじタイプの人間どうしが集まっても神経系が無反応であるという内面性があなた自身気づいてくると思われます。
友人と会うことを否定的にみたり、友人とつきあうことをテーゼにする記述はあまりおおくはないと推測できます。

そのような発信をするのは、マスメディアや出版などの表現系をビジネスにする分野となっていますが、友人をたくさんもとうとか、親友をもてばいざというとき助けてくれる、などと説いている記述に出会うことはあっても、それは非哲学だからいえることで、おおくの世界ではそれ以上の内面的には入っていっていないのが現実であるのです。
あなたの望みは根本的に自由になりたいと欲しています。

友人を増やすほど、彼女たちを失うことをおそれるようになり、自由から遠ざかってるのに、あなたは友人をもとうとしてきたのは、根本的には望まれてる生きる選択とは違っているのにそうしてしまうのは、生まれたあとに、欲求の身体からの起点である知覚が逸脱されているからです。

知覚や欲求の構造的な解釈としては、段階的に実践的哲学ではエクリチュールしていきますが、生きるためには知覚を構造的に運動が促せるようにされた設定が必要で、そうするとはじめて実態、実感のある生の力が湧き立ってきます。
しかし、あなたはこの世に生まれて生の力を奪われていて、その要因は、あなたという主体が外部にあるおおくに他の人間、つまり大勢の他者という対象があなたの主体を奪っているのです。

そもそもが、生に力がなく、本質的に自由を求め、自由を欲していることが実現できない身体の設定であることで、友人をたくさん作るという不必要な他者との競争にのみ込まれ、それが自由を不自由にするという否認が狂人さを正常さに変容されています。

そんな自由のない身体状態をいつまで維持できるのでしょうか?
あなたが自由に生きたいのに、そのようにして生きるのがよいのでしょうか?

本サイトでは、エクリチュールのなかに、なんども自然発生されたテーゼを重ねていき、西洋の表現をすれば、ランダムに言語を出力させていくことで、規則性が見えなくなり、あなたの脳のなかは体系となっていた一連の非哲学からの非運動は気づきに変わっていくのです。

規則性が見えなくなると、エクリチュールのなかで、どこかでそれが出てきたなと読解された非規則な言語はより意味をはく奪されて、意味の失われた言語は記号となっていきます。

あなたは本サイトのエクリチュールは、言語を記号にしていき、脳のなかの痕跡に近づけ、最高の神経系のパフォーマンスを生むための興奮という作用を生み出していく実践なのであります。

実践的哲学をするとは;人間として生きるのは社会が規定した人間で非哲学。人間として生きるならいまから10年経っても20年経ってもおなじ現実ができあがる。なぜならそれは非哲学だから。非哲学とは、いまをおなじまま保存する脳の記憶を揺るがせないようにするため。生命力は低下し、社会に依存する人間を大量生産する。面白くない生きる時間をつくるが、それにはだれも気づかない。実践的哲学が浸透すれば、哲学的な人間からひとへと脱構築されるため、人間はひとをみて悔いを残す。あなたは生きることをすべての出しきって生きるので実践的哲学でひとになり、人間をみてほほえむだろう。

この世はすべて自然発生で成り立っていくのが、構造であり、真実であり、それがエネルギーの生成であります。
そこをくつがえそうとするのが、あなたの個体の生を抑制しようとするまったく相反するエネルギー出力である社会を運営する支配層であります。

あなたが欲しているのは自然発生でのエネルギー生成ですが、その一方で、社会の主体である支配層たちのエネルギー生成はすべて停止して、理性という物事の解釈による数学的な弁証法での因果率をつくりだすという非エネルギー系の出力であるのです。

支配層というのは日本でいうと高学歴のエリートというジャンルに属する人たちで、そのような人たちは小さい頃から理性で物事を理解し、受験勉強に集中し、自然発生を抑制し、ほんとうはなにが起こるのかわからないのが生の力なのに、生の力よりも理性の因果率によって高学歴で支配層になるという誤った目標設定をたてられて生きてきた人たちです。

家柄がよいなどと、哲学が本サイトで立ち上がる契機から世の中は変換していくことにあなたは遭遇します。
本質を追求するには、いままではそれができなかったのは、あらゆる要素が加算されて時期尚早でした。
世の中というのは、すべてが理屈でいえるようなものではありませんので、すべての事象や心象などというかたちがあってかたちがないものを想像したうえで、言語は最後のタグ付けとして使用させるのが適切であります。

その権威を抑制するのはこの実践的哲学であるのですが、生きることのスクリーンというのはなにがおこるのかわからないのが真実であり、数学的帰納(きのう)ではなにもわからないのにわかったようにさせているのは、すべては数学的帰納による論理性をもつ不ぞろいな文脈です。

家柄がよいと、そのままの系統から仕事やそれにともなう住居、所得、学歴も一致していると思ってるのは、あなたが抱えてきた弱さなのであり、支配層になる対象は自然に大学なら東大や京大に入って、まっとうに卒業しているというのは真実でも事実でもありません。

そうでないひともこの世にはたくさんいますし、東大や京大をでていなくても、支配層にならないひともいるというのは、社会が規定している数学的帰納から外れる数式であり、そこは無数で、非規則の領野ですので、数式にできないのです。
哲学は、そういった全体的なものを無意識的運動から、反応として、大きくなりすぎた事象を運動によって小さくできるものです。

哲学を導入しなければ、たくさんの統合化された人間たち、つまりあなたやわたしたちのような大衆がかかわると、とてつもない大きさにふくれ上がり、それが統一性と同一性を保持したままで、存在するので、細分化することはほぼ不可能となり、それらがそこらへんに散らばっていても、大きいままで脳のなかに入ってきていません。
思い出していただきたいのが、あなたが小学生6年間と中学生3年間の義務教育で習った学校での授業の内容はほとんど覚えていません。

勉強するという実践の価値を問うことなく、それはさまざまな歴史哲学、民族学、文化人類学などの構造からみた本質を説かないままである意味強制的に学校は開始されたがために、教育という全体性のままで受けてしまったことで、義務教育の9年間という大きな時間のロスがなんの身にもなっていないという事実を作り出してるのであります。

世の中は、時代という時代区分を言語の意味生成の力を背負いながら固定性を維持しようとします。
これは全体性にあなたを引きこもうとする古代の神の残骸による過去の力で、全体性を背負っているあなたのような個人ではなく社会に属している国家が認めた有資格の人間、官に属している政治家、官僚、裁判官、公務員などはシステムが変化するのを好まないで、そこにいようとします。

哲学現実 メディア悪 哲学者ヘーゲル

哲学を行なわないと全体性は維持され、継承しようとします。
思い出していただきたいのは、義務教育の時期のあなたのこころの知覚はどうだったのかは、女性であるあなたは勉強は真面目に一生懸命にし、テストで良い点を取り、親にはそれなりにできる子どもだと思われるようになっていたでしょう。
そういう設定で強制的生かされるとそこには全体性に内在されている因果律という方程式が成り立ち、隠された計算式によってそうなっていくようできています。

真面目にあなたが勉強して生きてきたのは、社会があなたに要求する全体性を受け入れてしまっていたからであるのです。
哲学を導入すれば、全体性を抑制し、その生命体から断片的になり諸要素のなかに介在したまま、省ることができるようにできるのですが、それをしなければどうなるのかは、いまのあなたを見つめてみればわかります。
いつまで経っても、不安をかかえ、他者の前では幸せに見せるアレゴリーにされた健全なパロール(話し言葉)で、自分に嘘をついているのです。

哲学を導入しているこのエクリチュールのフィールドだからこのような文脈で表現できていますが、このエクリチュールがなければ、もしいきなり会って話をしたのなら、パロールが優位となり、それを抑制するところまでの境地には達することなく、あなたとせっかく出会ったのに、その日はお別れをしなければならなくなるのです。

全体性がそのまま偽装された論理により、脳のなかの思考にかかわる神経系のネットワーク、身体知覚を細分化して運動を起こす準備期に活動する感覚神経系は、哲学をいれ、世の中がそこを見ないようにしている地点である資本主義での外化という疎外(そがい)を隠そうとする動機にのみ込まれてしまいます。

それを引き出して、世の中の隠す疎外を運動させるためにも哲学の導入がいり、哲学は認識されている理解について細分化するところに行きつく契機(けいき)をつくる第一歩になり、疎外というのは人間から離れたところに違うものをもち、そこで権威をふるうとされているものですが、哲学はそういった疎外にたいしてかなり強めの風を送ることができ、それは疎外を維持しようと望む社会にかかわる支配層からすると権威をおさえつけるような非運動をつくり出すことができるのです。

つまり、それは支配層があなたの脳のなかでの社会という規定が解除されるためにパサージュしなければならないのが支配層を弱体化させることなのです。
これは幻想での展開で、そもそも社会というのは現実を幻想のなかで偽りを加算していくシステムですので、そこを象徴界、現実界と表現できますが、あなたの脳の設定も現実に目を向けるのはより社会がつくっている幻想に視野を位置づけることになるために、幻想は幻想として扱えばいいのです。

信じがたいことがたくさん出てきました。
哲学をすると、最初は戸惑うことも多く、真実が知りたいと思って生きている女性のあなたでもそこにいくまでにどんな困難が待っているのかと想像してしまうと、なかなかこわく感じてしまいますが、そんなことはありません。

幻想と現実は違っているところが、あなた自身が抱えている生活の不満、これから先の理想と現実と将来像は、いままでの過去が重ねてきた因果律をみてしまうと、いまという時間を未来には設定できないであなたに潜在力は低下したままになるでしょう。

幻想は社会がつくっているあらゆる現実的なシステムであり、それも求めていってもいつか迎えるのは負債の過剰性、それはたどり着くことのない永遠の幸せの地点、ずっと追い求め続けることに美化され、それがあなたを縛り付けたのなら、時代という世界が幻想を緩め、自然界の無規則な運動を促通させたときに、あなたは生きることはさせられても、人間がつくり出した人工物で生の意思をなくされたままで生きていくことになります。

幻想は夢の倒錯(とうさく)でありますので、現実のように見えています。
これは、本サイトが西洋哲学として書物を引用したパサージュのなかにも適用していますが、精神分析家のフロイトやラカン、ユングなどから人間の哲学による解体を本サイトのエクリチュールにも細片化した元素のよって内在させています。あなたが現実と思ってのが幻想であることに、実践的哲学で見つめる脳に入力での運動という経験をしていただきます。

倒錯というのは物事をさかさまにさせ認識するというものですので、幻想なのに現実だととらえるのは、それが倒錯であり、実践的哲学で幻想に哲学から運動を与える過程をふんでも倒錯はまた違う倒錯をつくろうとしたりして、真実というものにはなかなか到達できないのがほんとうです。

それでも、あなたにとっての現実というのは想像界の属していて、未来を先取りするのが現実になっていきます。
哲学がたえず駆動し、運動を起こしていく。
自然界のはちゃめちゃな破壊であっても、根源には不規則な運動の原理があります。

そこに焦点と基準を合わせ、これからの生きる方向を見つめていく。
そうすることで、未来を先取りできる緩みがあなたに生まれ、それまでは倒錯された幻想を現実だとなんども疑いながらも問いかける運動を停止させてなんとか現実にしておこうとしていたあなたの自己への裏切りが見つめ返されてきます。
哲学ができると、過去の出来事の思い出は消去され、そこから自己を喪失するような外化のよる疎外にも着地点をあたえてくれ、倒錯されている自己の悲愴(ひそう)をなくされ、あなたはいったんこころに緩みをあたえ、強めのリラクゼーションが生まれることになっていくのです。


本サイトでできることは、
・女性はみずから作り上げた知的欲求のよる幸福感と充足感をかたちにする

・現実でうまくいかないことから見る目を変えるために、知的欲求を刺激して、自分に自信を持って生きる

・現実に疲れ、心の疲れが取れない、心に不安がたえずあるなどの、症状を取り出し、哲学的に記述(エクリチュールといいます)を読み、女性の生き方を見直す

などです。
定期的なメルマガを申し込むもいいですし、個別に知的欲求を刺激するセッションを申し込むのもいいですし、いまよりも少し知識を増やし、自己表現をエクリチュールで発信して、自分を強くするプランを申し込むのもいいです。
本サイトは、自己を見つけ出すために、思考に運動を与える実践ができる女性専用サイトであります。
ご興味のある方は、ぜひご連絡くださいね。
お問い合わせ

本サイトのご説明をいたします。
美意識には、刺激として入力が必要だと申し上げました。
そして、入力には自分で刺激を用意しては、予期しないことでないため、それでは入力系にはならないとお伝えしました。

それを容易に叶えるのが本サイトであります。
本サイトは、女性であるあなた自身が今よりも充実感や幸福感を高め、日々が満たされるよう、そのお手伝いをさせて頂くことがビジョンです。
そのための入力を反復して頂くことが充実感や幸福感、美意識による生き方の変更、日々感じておられる仕事や人間関係などの疲れ、心に限らず身体に感じるイライラ、倦怠感、憂鬱な気持ちにも対応できるようになっています。

入力を促すには、本サイトが無料でお読み頂ける実践的哲学で構成された記事をお読みください。
これは、本来の普遍的傾向でしたら、無料でお読み頂く記事を無料にはしないほどの内容と質と量が伴っており、この記事が有料となるのですが、入力は自由にやって頂く方が適切だと考え、生の哲学を現代に合った文体で読むことができます。
これが、始原的な入力となり、何度も読んで頂きますと、入力の神経系は解放され、そのうちあなたの内部運動が持つ制御が生まれ、発散から収束され、あなたの思考の資材となります。

そこからより個別的に自分磨き、または疲れがなかなか取れない、孤独感があって、一人で過ごすことは不安や焦りが出てくる感覚がある方は、一歩進んで個別的実践的哲学に導入することをお勧めいたします。

・プレミアムメンバー;月額2,700円

あなたという一人の人を哲学により解体し、実際の未来へのビジョンや理念を立たせるお手伝いをいたします。必要に応じて、パロール(話し言葉)が必要ならオプションで実践的哲学をトレーニングしている哲学者とコミュニケーションの時間を作ります。

本サイトは、女性が自分の知り、それまで欲求は食欲、性欲、消費欲と思われていた基準を、知的欲求に変更する目的で作られています。
どうしてこのような女性専用でしかも、今の世の中ではほとんど行なわれていない哲学を内蔵させたのか?
この問い(テーゼ)の今の段階でわかっている地点は、女性には感性という自由な神経系を持つというところからです。
しかし、その感性を生かせる環境は、現状の世の中にはありません。
目の前のことは視野によって意味づけられ、女性が今日まで与えられた教育で固められた常識は、いつも女性の内面の自由さよりも、外部にいる他者に意識を奪われる、自分を見失うのです。


 

本サイトでは、女性の心の疲れを取る、心の不安を解消する、心に癒しを与える、女性が生きていて幸福感と充足感を得られるために、西洋哲学の文献引用をし、作者の主観を外すために、読みにくい、比喩や隠喩、または文脈上のレトリックと言われる修辞学、これは雄弁術、弁証術、説得術ともいわれる記述上の技法を駆使しているため、女性は書物を読むのが難しくなってしまっているのです。それを、本サイトでは、断絶して、切り取られた文節で、タイトルをつけ、何が書かれているのかを見やすくしています。接続詞や感嘆詞、副詞を外し、主語と動詞に絞っているため、読みやすくなっています。

なぜ、本サイトでは、西洋哲学の文献引用を記述しているのかというと、日本人というのは、島国で曖昧さにより、女性のなかに潜み、隠れている自己を捻出するのが難しいからです。つまり、女性が抱えている心の疲れや心の不安は、曖昧さからきており、西洋哲学の文献引用を読み、知的欲求が抑制されているところを目覚めさせ、興奮させることによって、女性は知的さを高めると、心の不安が安定に変化するという感覚が知り得てくるからです。

その文献引用をパサージュ集と命名しています。
パサージュ集についての、コンセプトは次の記述をご覧ください。
女性の心を癒す落ちつかせるパサージュ|女性の不安を取る励ますための実践的哲学

パサージュ集は、本を読まなくなっている今世紀に重要な価値を女性であるあなたに与えることになるでしょう。
女性は、男性とは違ってホルモンの生成が年齢に関係なく豊富であり、今日まで信じられていた美意識は、性的な愛や恋に捉えれていましたが、実はそうではなく、知的欲求に性的欲求があることを本サイトが証明していっています。
女性は、知的欲求を磨くと、驚くほど、美しくなり、輝き、オーラが現れ、自己が確立して、生き方が変わっていきます。
その経験を、このパサージュ集を眺め見ることで、書物を一から読むよりも美的効果がありますので、ご期待くださいね。
パサージュ集に関して、お聞きになりたい疑問がありましたら、お気軽にご連絡ください。

本を購入することはネットから容易に行なうことができますが、その中に埋もれてる女性の知的欲求を磨くためのコンテンツ(文体)に出会えません。
そして、女性は多忙な生活を送っているのに、その中に本を探しに行き、そこから良いコンテンツに出会うまでの時間的余裕がまったくありません。
そのような事情から、現代小説のような連続性を内在させた形式に縛られたものや、すぐに結果が出るためには?のようなハウツー系に手を出してしまい、結局すぐにその本を読み終えても、知的欲求が刺激されることはほとんどありません。
本サイトはそのような事情をふまえて、コンテンツを中心に記載し、その文脈も哲学性がないものはまったく採用しておりません。
本サイトを運営する哲学性を持つ専門者が、吟味して、あなたの生きる時間を想像して選出しており、アナログで入力するため、未完成のままであります。
随時、更新させていきますので、ぜひご活用頂ければなと存じます。


*本サイトは、実践的哲学を女性が行なえる空間です。
西洋哲学をつうじて、今日までの社会構造に合わないで歪ませている自己に気づいてもらえるように、さまざまな文献引用であるパサージュ集と、本サイトが記述させていただいているエクリチュールという言語出力形式で綴って(つづって)います。これらを見て頂くだけで、固まっていた思考につながる神経系は緩みをもち、神経系は自然反応で興奮し、もともとの根本的機能である自分という内部の素材を探しだす運動が高まります。
これが、前述してきました知覚運動といいます。
文献引用をしたり、本記事のようなエクリチュールを見ていただくなかで、本サイトはなにを言おうとしているのかは、日常的な現象を観察するところから生まれた哲学的な要素であることです。
西洋哲学の文献引用は、そこから得られるたくさんの知恵もありますが、それはあくまでもあなた自身が社会構造に不適切な影響を受け、思考がとまっている内部の状態に気づいていくための、素直なパサージュ(経由)であるのです。

*本サイトの実践的哲学の月額2700円(税込)
問いかけは、何度でもかまいません。
ネットを使ってのパロールの解除から社会構造の断絶。
そこからエクリチュールの知覚発生。
感じたことを表現したくなる欲求の運動の感覚の実感。
エクリチュールで自己表現し、自分に気づき、ひとりで過ごす時間を充実させる。
今度は、実際に対面してひとに会いたいという欲求の表出。
そこからはさらにエロティシズムという至高性という最高位のひとの活動である精神性と芸術性に。
そこまでいけば、本サイト運営にかかわるひととの対面から、パロールによって再起動へ。
すべては女性のビジョンの発掘と、女性の幸福のために概念化のため。

*実践的哲学

これは女性のために立ち上げられた日常的に行なえる手軽な哲学の実践。
西洋哲学をパサージュ(経由)して、西洋が到達できなかった哲学的実践をたどり、まだ途中となっている本質の追求を引き継いだのが実践的哲学を運営する本サイト。このサイトは成長、発展のさいちゅうであると理解しており、多くの女性よりは少し前進する位置で研究や研鑽(けんさん)を行ない、女性がわかりやすく生きれるように導いていくのが本サイトの目的。
今日までの男性社会が主導権を握っていた社会構造はますます弱体されていて、それが見えてきているのが、お金がすべてだという強い権威志向でなっている。
そんな世界に女性がいると、女性もそれに巻きこまれてしまって、せっかくの女性の感性や感覚という機能が磨けなくなり、女性が生きることの活動のための根幹にある身体には、唯一のビジョンを探し出そうとしているのに、脳のなかがそれに応じるシステムでなくなっていて、それを解除して新しくするのが、実践的哲学。女性のための哲学である。
*実践的哲学の基礎知識

実践的哲学とは、2017年に発動した女性専用の哲学サイトであります。
社会構造は依然として昔に回帰する保守(ほしゅ)という方向が強くなってきているなかで、女性をとりまく労働条件は見た目の制度は表現には正当なものをつくりだしてきていますが、現実はそうではありません。
それをいち早く予期した本サイトは、女性の脳のなかを縛っている価値意識を神経系の運動を入力することで運動で日常的に学習されてしまった女性の感性や感覚を抑制を解除しようという実践をおこなっております。
そのためには、何度も現状の社会構造についての記述(エクリチュール)をこちらから発信し、それを見ていただきます。
そして、女性の構造というのはありのままの形象から見て、本当はもっと感性が豊かで感覚が優れているのですよ、というどこからも否定できない事実に目を向けていただき、自分を知ってもらい、女性がもつ女性という構造的にそれだけの潜在性があるんだということに感覚で見直し、それが自己の初期化になって、一から生に意思を与えようということをおこなっております。
日常的に女性はよく他者とお話をするものですが、それは日常的な時事から離れたところから自分や他者を見つめたうえで話をしているのではないのです。
それでは感性や感覚が磨かれるはずはありません。それを本サイトは、集団から女性を切り離し(断絶)し、徹底して個の状態にします。そうして、女性の神経系に運動を繰り返し与え、それを何度も反復すれば、女性からみた現実の空間というのは、いま知っている現実界とは全然違っているものであることに驚きをかくせないでしょう。

*哲学を実践するとは

哲学というのはいまを否定し、未来を直接見るために現状のものの見方に運動を与え、そこからリセットさせ、一から神経系の運動を生成させる実践です。


実践的哲学用語

*知覚とは?
本サイトが実践的哲学を行なうことで興奮するのが知覚と定めている。もっとも女性のなかの根底にあって、微細なエネルギーであるのに、身体や心の端から端へと末梢という皮膚と筋肉のあいだの毛細血管の反応をよくする器官としている。知覚は医学的には神経系の感覚が脳の感覚野という連合作用をつくるもので、無意識的とされているが、本サイトでは西洋哲学と精神分析者であるフロイトとラカンをパサージュ(経由)し、知覚は胎児期から出生時に起こされたどこにもつながらないで起動した根底の運動だと考えている。

1,自己内の神経系が末梢に伝達するリズムが失われてそれを探している

2,自分のリズムを失われていったため、頼るものがなくなり、それが発達時の周囲のおとなに合わせていった喪失感

3,社会がつくった人工的な不安という認識に追いかけてもどこにもなく、自分は不安だから人間関係や仕事、家族との関係を断ち切れないとする誤作動の疲れ

4,本質的にもっている身体のリズムを探したいのに探せない焦りと不完全な感覚。自分らしく生きようとしても手がかりがなく諦めてしまう自分への嫌悪感

*実践的哲学;禁止を侵犯するエロティシズム
実践的哲学では、エクリチュールのフィールドで思考に運動を与え、見てはいけないところだとか、いつもなら思ってしまうと仕事をしていくうえで、それが集団生活においての都合上での弊害がうまれるために、思考を停止させている領域。そこに運動を与え、運動を促していき、いつもなら見えないところをともに見ていこうとする実践である。思ってはいけないというのは、人間には基本的人権を尊重され、思想の自由が保障されているのにそれができないのは自由ではない。実践的哲学は、西洋哲学をパサージュ(経由)して脳のなかの大枠として外延に安定をあたえておいてから、思考に運動をさせていく。知らないことを知るように、考えてはいけないのに考えてしまうのは禁止という事項を壊すという侵犯がうまれ、社会に規定された認識ばかりが脳を支配して、自由を抑制されていた神経系を快楽にもっていけて、神経系の運動の起点を作り出せる。これを実践的哲学ではエロティシズムという。
本サイトでは、エクリチュールのなかに、なんども自然発生されたテーゼを重ねていき、西洋の表現をすれば、ランダムに言語を出力させていくことで、規則性が見えなくなり、あなたの脳のなかは体系となっていた一連の非哲学からの非運動は気づきに変わっていくのです。
規則性が見えなくなると、エクリチュールのなかで、どこかでそれが出てきたなと読解された非規則な言語はより意味をはく奪されて、意味の失われた言語は記号となっていきます。
あなたは本サイトのエクリチュールは、言語を記号にしていき、脳のなかの痕跡に近づけ、最高の神経系のパフォーマンスを生むための興奮という作用を生み出していく実践

実践的哲学をするとは;人間として生きるのは社会が規定した人間で非哲学。人間として生きるならいまから10年経っても20年経ってもおなじ現実ができあがる。なぜならそれは非哲学だから。非哲学とは、いまをおなじまま保存する脳の記憶を揺るがせないようにするため。生命力は低下し、社会に依存する人間を大量生産する。面白くない生きる時間をつくるが、それにはだれも気づかない。実践的哲学が浸透すれば、哲学的な人間からひとへと脱構築されるため、人間はひとをみて悔いを残す。あなたは生きることをすべての出しきって生きるので実践的哲学でひとになり、人間をみてほほえむだろう。

*実践的哲学から見た脳のお話
実践的哲学では女性の心を探しだすために、身体を中心において身体から哲学を作りだします。それは、目的は心というものを知るのと同時に心が単なる想像的な枠組みの構造であることを知るためです。心というのは存在しておらず、幻想的なところで、女性にとっては神秘性もあれば、自分の嫌なところが性質や性格にあると思っているのなら、心に嫌な部分があると思ってしまうこともあるでしょう。それを実践的哲学で女性のあなたの脳の神経系の運動を実際に使い、そこからの反応を待つというのが実践的哲学です。哲学とは言語によってあなたにかかわり、問いかけをして心をつうじる実態のある運動なのですが、心はいま申したように実践的哲学をすれば、心は存在しないことに気づきます。心は精神という言語を入力したあとに、自分の想像的な言語出力で残される空間である精神という地点にあります。それらを説いていくと、ひとという構造が見えてきて、生がこの地球上でなにを求めているのを知ることができ、あとはそれに向けて生きていけば、女性においては個体が求める幸福にたどり着くことができるのです。実践的哲学は構造をとらえていく実践です。脳のなかもつうじていき、大脳皮質が強い認識でそこが司令塔となって生きていると思ってきたいままでの生き方を修正します。大脳皮質よりも下層にある無意識的な運動を行なっているところにほんとうのあなたの生についての情報が隠されています。それを追いかけていくために、実践的哲学は大脳皮質やその下層の皮質下という領域まで入っていくことができるようになります。

*大脳皮質と皮質下のシステム
大脳皮質は皮質下の神経系の伝達でえた一部の情報を過去の認定された情報とすこし照合して判断します。それが適切かどうかをすこしだけ考えてくれて、またおなじ情報に戻すという連合される機構があります。ひととしての構造は大脳皮質がサブシステムで皮質下がメインシステムでありますが、人間像と学習された知識がこのシステムを狂わせるのです。多くのひとは人間でいなければならないと思って皮質下の感覚的情報を無視して、大脳皮質でえられた一面的な情報の連合を信じて、それが自分だと思ったり、そこから見えている世界が現実の世界だと思いこんだりします。皮質下をメインシステムの戻すのが、実践的哲学の目的であります。皮質下というのは、生存欲求が起こる脳幹、情動や感情が出力される辺縁系、身体感覚の中心である脳幹網様体の姿勢制御のスイッチなどが入っていて、皮質下を実践的哲学でメインシステムにできたなら、感覚的な作用を感覚レベルで連合することができ、生きることを意識できるようになっていきます。

*実践的哲学をするとシンプルに生きていける
実践的哲学は、西洋哲学をパサージュ(経由)して、古代ギリシャから始まったとされる哲学、宗教、科学を総体的にとらえて、女性の内面的な感性の豊かさにより運動を与えつつ、社会は大脳皮質での認識で物事をとらえようとして、女性の感性はその下層の脳の部位である皮質下の運動が活発さから、女性は自己について曖昧さをもち続けています。いつもなんとなく生きていたり、社会に自分の弱さが結びついた女性なら大脳皮質を無理に使用して、生きることを社会の外化されたままの自分を受け入れています。仕事がすべて、結婚がすべて、子どもがすべて、趣味がすべてなどというような、いかにもという偽装されたスタイルは、冷静に他者がみたらわかるぐらいの違和感ですが、曖昧さを抱えている女性はひとりからふたり以上の女性が集まると日ごろの曖昧さの葛藤からパロール(話し言葉)をくりかえして、自分を急速に満たしていくという行為をくりかえしていきます。これは反復という原理で、生は自由に生きたいと欲する真の運動と死は禁欲により自分を抑えることで自分は世界で成り立ってるというような二面性がぶつかりあっているのです。曖昧さを満たすのが死に向かっていく反復で、満たされたような錯覚が心地よくてやめられないというのが生の反復となります。実践的哲学は、西洋哲学をパサージュして、体系的なところに立っていただき、そこから自由に運動する内面を感じては、女性が自分の自己像の思い違いを修正し、生に意思が入りこめるところまで、かかわっていこうとするものです。そこまでの神経系の運動はサポートする相手がいなければできませんでした。ほんとうの自分を探したいというのは女性の衝動でありますので、女性に哲学をしてもらう機会をあたえないと、生と死の二面性による反復が、女性の曖昧さを高めるとともに、その曖昧さを満たすための集団化に終日、エネルギーを奪われてしまうのです。そのようなことを経て、自分の時間設定が一となり、いままで社会に規定されていた常識が外れると、あなたが行なっている労働である仕事についても、まっすぐに省みていけ、それがどれだけ自分には還ってこないものなのかがわかれば、あとは自分の構造から立つ上がる唯一のあなただけのビジョンを頼りにその段階では生に意思が与えられていますので、シンプルに生きていけるようになります。

実践的哲学では、すべての世の中にできている事物にたいしてテーゼ(命題)として、空間に浮かせ、そこで事象に運動を行なわせ、反応をみることができるようになり、それによってあなたという小さな個人というひとであっても、この世界中の事物は一時的に自分の脳のなかで生きていくための知恵として活かしなおせます。

この記事のライターのtakが行なうコアパーソナルトレーニング。
実践的哲学に入る前に、脳を初期化するために、まずからだを調整し、大地と共有させておくことです。それを主にしたパーソナルトレーニングが次の記事で書いてありますので、ぜひご覧くださいね。

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tak

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