やりたいことを見つけたい

ひとがなにを望んでいるのかを追求するのが実践的哲学|女性の心の疲れと不安を取る哲学

投稿日:2018年4月15日 更新日:

実践的哲学の目的はひとがなにを望んでいるのかを追求。女性が自分で事業を立ち上げるために。

女性望むもの 女性生きる 女性哲学

世の中に生産された多くの商品(アイテム)は生産することが最終目的で、それがお店に並び、お客さんが購買してくれたらその時点で目的が果たされたことになります。
購買してくれたお客さんがその商品を所有してからどうなっているのかというのは、追いかけられていません。
このような生産システムが現在の世の中であり、お客さんは消費をする行為よりも販売側が売ることを目的として、それによって利益がでたならそれでいいというようなものの考えなのです。
本サイトが運営する実践的哲学は、生産と消費を交流させるのが本質的な行動ですが、それができないのは、ひとがなにを望んでいるのかから先を想像できておらず、どうしても自分が満たすことを優先的に重視してしまっている人間たちからあなたを適度な距離をおき、脳を再構築するのです。
実践的哲学は、西洋哲学という長年の古典的哲学から近現代哲学までをパサージュ(経由)して脳のなかに思考の運動を与えるお手伝いをします。
なぜ、そのような西洋哲学をパサージュするのかというと、あなたが知らないうちに、これを知らなくて当然でかまわないのですが、このいまの時代に時間が進んでいくあいだにさまざまな実践的な哲学が西洋ではなされていたためです。
すべてをそのままあなた生きているいまというところに当てはめるのは、国家の社会システムも違っているなどの諸要素がすべてが一致するわけにはいきませんが、それでもそれぐらいの哲学者がかかわり、思考に運動を与えられたり、思考をしていると思っていたのがそれは信仰による神が中心であって思考は停止していたなどと、そういった哲学を実践してきた背景を追いかけるだけで、ある程度、ひとは哲学の実践から至高性(しこうせい)までに到達できています。
完全に一から哲学しようと意気込んでも、現在のこの人びとが生きている世界という社会が規定したところというのは、その規定が年々しばりつきが強くなっている傾向があるため、哲学を一からはとても難しくなります。
女性であるあなたはこれから生きていくのに不安だなと思っておられることでしょう。それもそのはずで、日本という国家は社会保障が安定しているのが特徴でしたが、アメリカから輸入されてきている合理主義の勢いに屈し、成果報酬のあおりをうけ、社会保障はこれから先保障されなくなっていきます。
これは、自明の理であるのに、いちどイデオロギー(観念の体系化)から主義というシステムになってしまうと、そこに個人がかかわれる緩みの空間がなく、絶対そうするべきという方向性が強化されます。
そこに疑問をもち、問いかけるというテーゼは行なわれなくなり、絶対性を維持していくという意識が作動し、その権威が全体性が膨大になり、壊れるまでいまのまま突き進むことしか選べなくなります。
そうしてアメリカから輸入された合理主義は見直すことなく、維持することしかできず、利を求めるところに水準を合わせるという価値意識がなくされません。
利益重視という価値基準は、民間企業も行政機関も水面下では自分たちに利のあるようなシステムが構築されていっていて、その強い波というのは相当な哲学的に差異を与え、たくさんの人びとに気かせないといけないのですが、それはほぼ不可能といえます。
いろいろとこうして考えていきますと、このまま生きていてもどうなるのかわからないから不安をそれ以上ふやさないように、いまの会社やいまの仕事にしがみつこうなんて思ってしまったなら、これは利益重視の民間企業と行政機関とおない選択をしていることになって、あなた自身もともに大きな本質をうしなってしまいます。
この世界に生きて、あなたが好きなことや生き甲斐、やりたいことを見つけたいと強く切望しても、哲学を否定して自分たちだけの利益重視という価値基準となっていますので、この社会では哲学を実践してもむしろ周囲から嫌な思いをして終わってしまうこともしばしばあります。

あなたが素直になれたとき。一からやり直したいって思う。一からってそれは哲学が自然が発生したときのように水から山の源から出るのは意識してではなく自然のプリンシパル(原理)から生成されたように、あなたを生きるという方向に結びつけてくれる。ただ、この世界で哲学をするのは、非哲学で構成されているため整合されず、やらないほうがいい。いまの世界を実践的哲学で解体して、脱構築をしよう。すると、あなたはこの社会の属性を外すことができ、哲学をおこなうことができる。

この社会から脱するには、この社会がどのように営まれているのかを、外から否定や拒否することなくありのまままっすぐに見つめることです。
ありのままやまっすぐという副詞をつけたのは、社会をみつめると、社会はあらゆる規定をつくり、たとえば法律とか条例とか民間企業であればコンプライアンスだとかが強く作用し、あなたの生を停止させていますので、社会を強いものとしていて社会を単なる対象としたほうがいいのに、そこにゆがみが生まれ、社会は強いものであると再確認していき思考は発達できません。
いままでずっとそうやっていまもなおあなたは社会のなかにいようとしているのも、社会は強者であり、それらにたいしてなにも対抗できないというようにした恐怖システムによる思考の停止がこれからも思考の発達をとめてきます。
これは、社会に居場所をつくるという断片的で、表面的な規定された恣意があなたをしばりつけ、主観と客観、あなたを主体としてその周囲のものを客体化してみつめるという実践的哲学の根本が構造上つくることができません。
これは、いまの社会で仕事をつうじてなんからの生産活動をし、そこには現状の社会システムである資本主義における消費される立場にいるひとを顧客といいますが、その人たちがどう望んでいるのかも客体化できずに、うまく顧客を引きつけられず、自分に屈し、うまくいかないという負の経験値が脳に前頭葉という領野に強い学習効果を生んでいきます(強化学習、連合学習)。
もし、これから先、顧客獲得のノウハウをどこかの自己啓発やビジネススクールみたいなところで聞いたとしても、そこには哲学が導入されていないので、そんなものはあなたの幸福にはなにも関与しないで、顧客満足といいながら、あなたが勤めている企業の利益のためであります。
社会について実践的哲学でそれらの権威を緩め、思考が抑制されている認識が作動する設定であるかぎり、どれだけ努力をして自分を磨いたとしても、それはあなた自身の生の意思にはなりません。
そういうところから見ると、この社会で仕事に熱心であるひとほどこれからうまくいまない現実がたくさん起こってきます。
努力をすれば報われるという座右の銘が堅実で健全な社会人の規定がそのひとの脳の前頭葉に焼きついていますので、頑張るひとは他者承認欲求を満たすという脳の予測的な思考の固定させる規定が作動中です。
要は、他者に認められるために仕事に精をだしているので、それが目的となり、自分を省みるという哲学の基調な運動のフィードバックからフィードフォワードへの段階的な制御という運動が生まれません。

*フィードバック:運動が起きるという神経系での伝達がいままであった情報をとおりそこと照合して新しくやりかえる神経系の運動。
*フィードフォワード:フィードバックをつうじて再学習された内部の情報を次に作動させる状況で予期的にその設定で準備する制御。

社会活動においていったんやる気を出してしまうとそれがずっと継続することになり、そのようなひとたちはどの仕事という環境にいっても前向きでやる気のあるひとだと思われ、そのひとも脳の再構築がなく、いまのままの自分を受け入れてもらいたいというのが他者への承認欲求を満たしたいというのが脳のなかでシステムになっていますので、それをとめることは難しいです。
そうやってやる気があるからといって民間企業で設けている管理職というポストは限られているというのと、そのようなひとたちのやる気がかならずしも管理職になれるという出世につながるかどうかというのは別次元なのです。
多くの挫折者は、やる気と他者への承認欲求が結合しすぎて、脳の再構築の機会がなく、管理職になる、または非正規社員から同じ会社での正規社員へのランクアップに向かっていきますが、民間企業はそのようなひとたちを自分たちの利益に貢献する都合のよいひとだと考えるしかありません。
その人たちの上司がそんなに悪意がないとしても、会社の構造は社会構造の規定によって自分だけの利のために集められた集団でありますので、そのシステム内でおこることはすべて会社の人間での自分だけのためになっており、あなたという自己が幸福になるためではありません。
このような生活を続けていたら、生きる目的があなたとは全然違う人たちとなるので、いつも会社を通じた社会人という人工的な自分ということになり、生産活動として顧客と接していても、顧客満足ではなく、自分の属された会社での評価のために仕事をしています。
思考がずっと停止しているのですから、雇用されている契約としての会社、このときは個人にたいして強者である会社は、そのひとから生まれたものはなにもなく、会社を出てはいかされるような思考の運動を促通していませんので、ずっとその会社に属することがいまからひとりのひとに与えられた生きる時間の終わりまで決定されていることになるのです。

実践的哲学はひとがなにを望んでいるのかを想像できるように導いていく

あなたはどこかの会社に契約で属していますが、それが永遠に続くとは社会もそうですし、だれひとりとして言ってはいません。
実践的哲学にあなたは出会いましたので、さっそくこれをあなたの生きる時間のなかに入れてもらいたいのですが、あなたが属している社会のシステムで生きてるのは真のひとが求める内面的に自然発生する哲学性のひとがなにを望んでいるのかというテーゼをあなた自身から導かないようにします。
この実践的哲学があなたの元にくるまでは、じゅうぶんに社会のために貢献するという脳の学習が生まれない設定で生きてきましたので、実践的哲学を積み重ないと、いまのままひとについて想像しても自分の主観でしかありません。
だからといって、社会貢献が全面に出てしまう行動の価値意識は、言語生成の膨大な情報が階層を作り、そのなかに差別を生んで、現実の不可解な生き方への実感のないという理解からの誤作動であったりするので、そこについても注意深く見つめておかなければならないのです。
この逆の行動の価値意識の発生することもあるのは、仕事が嫌という負の認識は負の解放というゆがめられた心理学的な外延がひととひととを執着によってつながりを作っていき、これも真なる生きることを映し出してるのではありません。このような二面性は哲学を実践していないと、ひとりの人間のなかに心理的な差異ができて、それを抱えながら、あなたという自己とそれ以外の他者とにこれもまた外延となり、つながり合いが無数から無限へと発展し、自己はこの時点でほとんど意思は抜かれます。そして、このような二面性はたえず、あなたに矛盾をつくり、悩みの継続と迷いの反復によって、ひととひととを隔離して、ひととひととを不信という負を持たされます。ここで心理学的にあなたの脳と精神を自己から疎遠にして大きな範疇になっていくのが、あなたから見た世界を解釈する主観という魔物の存在です。

『わたしがそう思うのだからひともそう思う。』
『わたしがこうやってもらいたいから、ひともこれをやってもらいたいはずだよね。』
というようには、けっしてならないのに、主観という脳と精神を疎遠にした新しい外化されたネットワークは、次から次へと単体になっている理解可能な事物をひとつのものとしてカテゴリーにします。
そもそもの設定が違っていて、このままいまの社会でいつづけたいのなら、そのままでいいのですが、あなたはこの実践的哲学を知ったので、このままでは幸福にはなれないだろうという危機意識がめざめ、いまではそうは思えないはずです。いま思考が停止している障壁がこころのなかか、からだのどこかに生まれていることです。それでいいのです。そうなってもらいたいから、本サイトは生まれました。
設定が違っていたら、それを初期化して、物事を見つめる見方を一からひとの身体構造に追従しながら、その内部でどうなっていくのかを感じとりながら、自分で自分のリズムに気づいていくのです。
あなたにはいますべての物事を価値基準として認識という脳のほんの一部しか使用しない固定パターンになっていて、この認識というのは、いまあるものを見て、それが人間がつくり出した自然なるものでそれが理性からきているんだと再確認する固定パターンです。
あなたの周囲のおなじフロアで仕事されているひと、特に男性、またはOLというスタイルで給料をもらうために仕事をしている女性たちはみんなそのような固定パターンをもっています。
実践的哲学はいまあるもの、いま見えているものをそのままにして、否定や拒否をいれるのではなく、そのままにしたまま、そこに運動を与え、脳のなかでそれを解釈する固定性を緩めるようにして、そこから省察しなおします。

実践的哲学は、哲学の言語表記が想定する現実的ではないという固定的なもの、哲学をしても現実社会に何も反映しないという無価値な意味生成を改変する展開になっています。
哲学をあなたの生きる根底につなげる試みは、あなたが生まれ育ったこの日本という国土では社会の成熟が進み、物を生産しては過度な広告をして人間とは物が欲しくなる欲求を持つというもともとあったという認識で導きます。これは、虚偽の人間の性質を説く外部性であり、それが気づかれないように初源的なものとしておいておこうとしています。
人間には体内というからだとこころの構造的な機能が運動されている有機体で成り立っており、この有機体では生を遂行しようとする意思が神経系のシナプス(神経系の興奮と抑制を起こす神経物質)に化学反応を起こしているのとどまります。社会は人間にもともとあるようにして、生産性を固守させるような規定を作っていっています。これは、人間が定めた人間がこうなければいまの水準を保てないとするルール(規則)です。

*ルール(規則)とプリンシパル(原理原則)の違い

ルールはもともとあったように人間の本質に由来するように説いた恣意的(しいてき)な意味になる。これを解体するために哲学の実践が必要で、そうでないとひとは人間になるために強制されるルールが脳を固定していく。哲学を実践するとルールが解け、有機体が実態のある細胞の自律的運動として起動するプリンシパルに気づける。これが本当のあなたの内面に一番近いところになる。

あなたの生きている世界には、こうして生きなさいというさまざまな諸規則がたくさんひとつの限られた生きる選択を強制しています。
脳がからだとこころの中心であるという諸説は、いまもなお適切な理論でお話できるだけの要素はたくさんありますが、腎臓やホルモンを産生する内分泌腺などの器官という自律運動をくまなく時間の差異によって起動しているものから

実践的哲学の根本構造と目的とは

本サイトは、実践的哲学を行なうためにあります。
そして、全体で生きてきた旧社会制度は高度成長ですべての吸収し、終末を迎えたのに、多くの全体は個人の生をこの自然界から置き去りにしてしまったために、精神性の領域がまだ未知なものとして神秘を失わせていないことから、そこにもうひとつの世界が大地の地底よりも下層に残り、霊的な喪失された知覚があるのです。
あなたがこの世に生まれ、資本主義という社会システムのもとで育ち、教育を受け、生活観を発展させてきました。
そのために強いられてきたのは、生産性をあげるということであり、そうはいっても生産性の定義を明確な手ほどもなされないままに、学歴のために学校に入学し、学業の内容はそこそこに卒業を獲得するためにあなたの生は停止され、自立を失い、生は受動態となっていました。
生産性も知らないのに、生産性をあなたは背負っています。
生産性を知るための目的で、教育を受けてきたことは知らずして、社会システムはそのつもりで教育制度を設定しているのです。
ここに、無の知覚は差異を生みますが、あなたが見えていないところですし、哲学をしなければ見えないところを背負っています。
なぜ、仕事をしなければいけないのか?
こころに余裕がなく、生の受動態が加速している神経系をお持ちの方なら、生きるためにはお金が必要だから仕事をするんだよ、と一喝するかのようにいら立ちをもった言語音声(パロール)であなたに怒りを見せてくることもあるでしょう。ここの地点に立つことができると、いまという時間区分から意思を抜くことができるようになり、いまがあなたの元から立ち去ってくれると、いまと仕事は同じところで価値を共有し合っていて、仕事をするということについて哲学を実践させる機会を持てるのです。
仕事というのは、いまを支配するために行なっています。
何のために仕事をするのかというテーゼは、すぐにでも、喜んででもしたいなって欲動が抑えきれないものであるのに、多くのひとはこれができません。
女性はやりたくない仕事を割り切って考えていますので、この仕事にかんするテーゼはとてもよく神経系に響くのですが、男性の中年以降の世代にはまったく効きません。そのような世代が上司であるのが、社会システムにとって悪なのですが、社会は個性的な人間を作り出そうとは少しでさえ思ってはいないので、そういった男性ができあがるのは自明のルールなのであります。
あなたが仕事をするために属している会社という集合体は非哲学の集まりで成り立っています。なぜならそこには、生産性を求めることについて哲学から導きだされてみずから気づいたのではなくもともと本能的にあったものとして人間すべてに共通した普遍性の価値観にしているからです。
あなたが個人で哲学を行なえるようなところで育ったのなら、仕事をすることをも最初から問いかけ、仕事はどうあるべきなのか、人間はほんとうはどんなもので生がどこから湧き出てくるのかをみずからを以って知ることができたり、他者を客体にして、適度な距離感で、時には本質的なテーゼのために他者と接近したり、時にはみずからを省みるために、他者と接続をしてみたりして、他者を活用するものであります。
これは社会が個人であるあなたに要求しているのではなく、あなた個人の有機体のなかのからだとこころは神経系という脳と脊髄、他の全身の器官なる細胞が要求しているのは、有機体としての初期設定の欲求です。

哲学を歴史的にみた哲学史があるのですが、そこから見つめてみると、哲学はひとが無意識的に放置していても生まれてしまう知覚からきていて、なにも思わなくてもやってしまう衝動と直観あたりにで運動を起こしています。
その哲学は歴史的に、貴族といわれる人間たちが仕事は奴隷にやらせて、余暇という時間で哲学をしてきており、今日に新しい理論が数々の研究によって生まれてきていますが、そのほとんどは哲学が行なわれた古代ギリシャにはわかってしまっていた理論ばかりです。
それもそのはずで、古代ギリシャの貴族たちは仕事をしておらず、自分を無にすることができたのと、心に余裕をもち、自然と対峙しながら自分と向き合っていたために、身体をつうじて多くの真理を含む理論がたくさん発明されたのでした。
哲学は歴史的に貴族のもので、貴族が幸福になるために生まれてきたのです。
そのころ、奴隷にされていた農民や商人は哲学を伝えるにも字が読めないひとも多く、哲学はかんぜんに貴族が豊かになるためでありました。
本サイトが西洋哲学をパサージュ(経由)するのは、古代ギリシャをふくめ、古代ギリシャが自然と対峙して向き合ってきたところから理論とした哲学であったというもの女性のために変化させたいという願いからです。
そうして西洋哲学をパサージュして、哲学をあなたという一体の個体である女性に活用するために、哲学を行なうことを重点におき、それを実践していただくので、実践的哲学とエクリチュールしております。
実践的哲学をあなたに行なっていただき、それがどうなっていくのかというテーゼは、女性がひとりで生きていけるように、実践的哲学で脳の細胞の自律的運動を促通する神経系の発達につなげるところから、女性に自分で独立したやりたいことを追求から、自立を含めての事業を行なっていただこうと考えています。
本サイトは理論と実践を同時性で運動を起こしていく基礎概念をもっております。どこかに所属して勤めるという労働のスタイルはこれからなくなっていくと本サイトは推定していまして、会社という生産性のみでは消費が脳の神経系から出力されているのではなくなっていて、生産性だけが過剰になってきています。
利益と損失をグラフにした損益分岐点という数学的視点があって、売上が30万で費用が20万であれば、損益分岐点は10万のところにきて、事業というのはその損益分岐点を想定して計画をしますが、そこに抜け落ちているのが、人びとはほんとうにそのような生産された生産物(商品)を必要としているかの視点です。
そこを追求するのが哲学の役目でありますし、かつての古代ギリシャで哲学が生まれたのは純粋な生を追求できた立場にいた貴族だったからこそそれを実現できたというのは、物事は根源を見つめなければ、繁栄しないということです。
根源に近づくには、そして根源からにつながる派生されている経路は生物の巣のようにわかってくる本質は、古代ギリシアを見つめてみると、仕事をしないで自己の内面に生まれてしまう雑念が少なかったことから、そういった自己の身の置き方を省察するのが適切なことだと思われます。
つまり、仕事というのは生産性を生み出し、それを売買するという形式であるところに哲学を入れ、ひとは生産性をほんとうに求めているのかどうかという人間の意識ー起源というところまでを見なければ、生産性の見方でさえ、ゆがみをもってみてしまうことがあるのです。
古代ギリシャの哲学はその後1900年以上の年月、生き残されていき、それが実現できたのは、自然と対峙した無機質な思考の運動だったからであります。
自然が目の前にあり、それをみつめるひとがいました。
まだ人間という自己を生物的分類がなされないでそのままのひとでいたと推測でき、古代ギリシャの哲学者たちは奴隷に農業をさせ、いまでいう商業も奴隷がし、その恩恵で貴族は余暇を持つことができたのですが、それでも貴族はいまの現代で存在している中流の経営者のように自分を満たすためと自分だけのお金を得るだけの思惟とは違って、純粋に当時の貴族は哲学をしていたのです。

*ミシェル・フーコーにパサージュ

*哲学と演劇
「西洋世界では、哲学が演劇に関わりをもったことはほとんどない・・少なくともプラトンが演劇を断罪して以来そうだったし、哲学と演劇との関係についての問いが、最も尖鋭(せんえい)な形で提出されるためには、結局のところニーチェを待たなければならなかった・・」p16(9)哲学の舞台;ミシェル・フーコー+渡辺守章

「西洋哲学の内部で演劇が無視されてきた事情と、視線についての問いを提出するある種のやり方とは、関連づけられねばならないと思います・・プラトン以来ーそしてデカルト以後その傾向は一層顕著になるのですがー哲学上の最大の問題の一つは、ものを見るという事実は何に拠っているのかを知ること、というか、自分の見ているものが真実か幻影か、現実の領域に属しているのか虚偽の領域に属しているのかを知ることだった・・現実のものと幻想のものを、真実と虚偽を分割すること、それが哲学の役割だったのです・・」p16(13)

「精神医学が真実か否かということは、私にはだうでもよい・・私が提出する問いはそういう問いではない・・医学の説くところが正しいか正しくないか・・分析学者としての私には二の次の問題なのです・・私の知りたいのは次のようなことです・・病気というものを、狂気を、犯罪を、人はどのように舞台にのせたかということであり・・人が病気や狂気や犯罪を、どのように見、どのように受け取り、それらにどのような価値を与え、どのような役割を演じさせたのか、ということなのです・・」p17(12)

「私が書こうと思うのは、後になって人が、その舞台の上で真偽の分割を樹立するような、そういう<舞台>そのものの歴史なのであり、私の関心は真偽の分割にはなく、<舞台>と<劇場>の成立そのものにあると言えます・・西洋世界が、どのようにして<真理の劇場>を<真理の舞台>を、自らのために構築したか・・西洋的合理性のための舞台の構築そのものを問おうと思うのです・・西洋文明はその政治的・経済的な力による世界支配という点では頂点を過ぎていますが・・この合理性の一形態だけは、他の世界に残すだろうと考えられるからです・・真・偽の弁別の様態の一つであり、それは一つの劇場に他なりません・・」p18(3)

「私が関心をもつのは<永遠なるもの>、<動かぬもの>、外見の輝きの変化のもとに<変わらずにいるもの>ではない・・私が関心をもつのは、<事件>です・・」p20(16)

「ところが、<事件>というものが哲学的範疇になったことはほとんどない・・ストア派の場合だけが例外だったのかもしれない・・それは<事件>が彼らに論理学上の問題を提出していたからです・・ここでもやはりニーチェが、初めて哲学を、『現在生起している事柄を知るのに役立つ活動』として定義したのです・・一連の能動的な作用(プロセシュス)が、運動が、力が、われわれを貫いているが、しかしわれわれはその実態を知らずにいる・・そして哲学者と呼ばれる人間の役割は、恐らく、そのような作用や運動や力の現下の状勢を診断することだ、というわけです・・」p21(2)

「『われわれは何者か?』という問いと、『今、何が起きているのか?』という問い・・この二つの問いは、伝統的な哲学的問いである『魂とは何か』とか『永遠とは何か』とは大いに異なるのです・・<現在時>の哲学であり、<事件>の哲学であるこの哲学は、演劇が対象としていたものを、哲学の角度から捉え返そうとするものだと言えます・・というのも、演劇は常に<事件>を扱うものであり、しかも演劇の逆説は、まさにこの<事件>が繰り返されるということにあった・・人が上演する限りそれは毎晩繰り返されるわけだし、その繰り返しが続く限り、際限のない時間の広がりのなかで、すでにあった現実の、あるいは虚構の事件が繰り返されていく・・このようにして演劇は<事件>を捉え、それを舞台にのせる・・」p21(9)

実践的哲学の根底の考え方は、西洋哲学の哲学者のエクリチュール(文字言語)に基づき、未来を先取りできるようにあなたが属しているいまの領域を省察するためとあなたよりも外側にある世界、社会、人間、他者などを脱構築していく編集をしています。
運動という自然発生には、渦巻いた多重に重なっていく波の差異のなかに入っていくことで、そのなかで時間の流動性にも適切な運動と一致させ、そこから未来を先取りして、自己の手元に向かってきます。
フーコーは20世紀の哲学者で、精神医学を研究し、正常と異常、監獄の歴史や狂人についての研究などの人間の本質をつかむためにあなたが内面で運動の差異に恐さという非哲学で真から生きていけないことについてを哲学しています。
そこでパサージュを導入します。フーコーのエクリチュールは何事を発しているのでしょうか。
フーコーはいままでの哲学者が行なってきた哲学とは少し違った見方をしているようです。フーコーは、哲学と演劇を関連させようとしていますが、それは人間の生きていくところを舞台ととらえ、人間の内面を見る前に、さまざまな事件、出来事を見ていこうとするのです。

あなたがいて、無意識に知覚される自然の摂理という運動が起こっていました。
それをみつめるだけで、脳の神経系の作用は感覚的な図式を唯一のひとがもてる生命からビジョンが湧き上がります。
そのビジョンはからだの内面の生命を維持される反復がかんぜんにオートモバイル(自律的運動)になり、呼吸は肺の代謝機能によって意識下から分離して独立すると、循環といわれる血液にながれはひとに自分が生きていくために活用できる熱量に変換できるようになります。これが生命から沸き起こる唯一のビジョンに向かっていけるエネルギーの供給が熱量であります。
古代ギリシャではそういったひとの潜在性が高くなれる自然とひとがシンプルに立ちあっていたので、科学が発達した現代でも通用できるうえに、いくら現代で科学機器が製造されて実験や研究がたやすくおこなわれていても、古代ギリシャにはかなわないという事実があなたが生きていくうえで、ビジョンや熱量を高めるには検証する価値がおおいにあると考えることができます。

女性のための哲学は古代ギリシャを起点としていく。しかし古代ギリシャの哲学は基礎構造を脱構築する本質であるため、いまのあなたには理解しずらい。そのため古代ギリシャに近づくために、いまを構造から見つめ、自然、人間、社会などの構造から剥がしていき、シンプルにする。

これからは全体性が消失し、個体が社会をつくっていく段階をむかえ、あなたはそこで活躍する第一人者となるのです。

この記事のライターのtakが行なうコアパーソナルトレーニング。
実践的哲学に入る前に、脳を初期化するために、まずからだを調整し、大地と共有させておくことです。それを主にしたパーソナルトレーニングが次の記事で書いてありますので、ぜひご覧くださいね。

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